チベットの英雄叙事詩
ケサル王物語
35
太陽が沈み、大地は真っ黒の篭に覆われたかのように暗くなったが、メルツェはもどっていなかった。シェンパ・メルツェはジャン国の将軍たちをだますことができず、かえって捕らわれの身になったにちがいなかった。獅子王ケサルは出陣の決意をかためた。
リンの180万の騎馬隊が動き始めた。駿馬の足取りは軽く、兵士は宝弓を入れた黒羽根の箙(えびら)を背負い、銀の鞘(さや)から宝刀を抜き、雄叫びをあげた。
塩湖のほとりに二人の将軍ドゥクデとツァマルが立ち、遠くに土煙があがるのを見て、リン軍の兵士が近づいてくるのがわかった。そのとき突然丘の上に巨大な野牛があらわれた。その狂暴そうな野牛は角を天空に突き立て、三度吼えると、その四つの脚で地面を踏んで、大地を揺るがした。兵士らがそのことを知らせると、二人の将軍ドゥクデとツァマルは弓矢をもってかまえ、野牛に狙いをさだめた。
「おまえたち、恐れることはないぞ。これは守護神がわれらにたまわった食料だ。一矢のもとに射止めてみせるから、よく見ておくがいい」
ドゥクデが矢を射ると、それは野牛の体に当たったが、まるで茅が当たったかのように矢はクニャリと曲がり、地面に落ちた。ドゥクデは心が折れ、ひとりごとをつぶやいた。
「もう三度弓を引こう。それでももしこの野牛を殺すことができないなら、それはつまり何の望みもないということだ」
ドゥクデ将軍は三度弓を引いた。第一の矢はこれまでの矢と同様、牛の体に何の影響ももたらさなかった。ドゥクデは激高し、われを忘れて一矢、一矢と弓をひき、ついには300もの矢を放った。しかし野牛は無傷のままで、何事もなかったかのような顔をしていた。野牛は悠然とリン軍のほうに歩いてきた。
ドゥクデはこの野牛がケサル王の変身した姿であることに気づいていた。野牛を殺せないのは当然のことだった。射殺(いころ)せないばかりか、貴重な矢を使い果たしてしまった。ドゥクデが丘のほうを見ると、だれもいないのか静かだった。彼は忍び足で丘に登り、放たれた300の矢を回収しようと考えた。
しかし丘の麓に達したところで、突然天から降ってきたかのようにテンマ率いる軍隊があらわれた。ドゥクデが何かを考えるより前に、テンマが一振りした刀は彼の脳みそを破壊していた。
リンの兵士はまたたく間にジャンの兵士を襲い、そのほとんどを殺した。ツァマル将軍は振り向きもせず、ジャン国に向かって逃げ出した。この巨大な宿営地に残るのは、木の枠に縛り付けられたメルツェひとりだった。捕虜のメルツェを交渉のコマとして使おうとしたのだろうが、そうする以前にリン軍が押し寄せてきたので、彼らはあわてて逃げ出したのだろう。
ツァマルはわずかな敗残兵をつれて、ジャン国にたどりついた。サタム王が烈火のごとく怒ったのは無理からぬことだった。彼はジャン国180万の兵士に出動を命じ、ユラ王子を奪還し、ドゥクデとギャルウェ・トゥカルの二人の将軍の仇を討ち、アロンコンソン塩湖を永久にジャンの所有とすることを誓った。
ジャン国軍180万の兵士とリン国軍180万の兵士はついに衝突した。リン国軍はテンマを大将とし、左翼黄旗統帥にニブム・ダルヤクを、右翼白旗統帥にアヌ・パーセンを、中間青旗統帥にセンタク・アドムを任命した。この三路にぎっしりと並んだ、80人の英雄が率いる軍隊は威風堂々としていた。
ジャン国軍はというと、チューギャル・クンガジクメが先頭に立ち、カロン・ニマ、ドンペン・カマペントゥを両側に従え、黒旗独眼十手のシェンパ・トゥマ、角頭鉄シェンパ、大力士熊頭ラマ、一本足白魔鬼、九頭黒妖魔らがつづいた。
両軍が真正面からぶつかれば、たいへんな激戦になるのはまちがいなかった。リン国のテンマは命じた。
「右翼は天から下へ突っ込め。カロン・ニマの相手をせよ。左翼は山の上から下方へ攻めよ。カマペントゥの相手をせよ。中間軍はまともに攻めよ。チューギャル・クンガジクメの首をとってこい。リン国の英雄と勇士よ、仇を殺すのは岩で山を破壊するようなものだ。ジャン国の軍馬と将軍らをたたきのめすのは、山を更地にして草を根ごと引っこ抜くようなものだ」
ジャン国のチューギャル・クンガジクメは妖魔らに向かって吼えたてた。
「太陽が山頂を照らす頃までには、リン国の人馬を倒し、高いところでは三頂山の上に死体を重ね、低いところでは川のなかに死体を捨てよう。シェンパ・メルツェはかならずその死体のなかに入っていなければならぬ。テンマの死体は陽坂と陰坂のあいだに捨てなければならぬ。われらは魔神に守られている。今日はなんとしても塩湖を奪わねばならぬ。そのときに敵で生きている者はいないだろう」
法王(チューギャル)はそう言うと、馬に乗って両軍の前に出て、テンマを指さして叫んだ。
「おや、リン国のテンマどの。聞くところによると、ジャン国に出兵して、サタム王の命を狙っているとか」
草山の牧場はどこまでも広がっていて
それぞれ互いに干渉せぬもの
われは国内にいるというのに
リン王がわが領内に侵犯するとは
憎むべきはテンマとジョル
わがジャン国を敵視しておる
わが黒矢は情けをもたぬ
おまえの命を射抜いてみせよう
昔の人はうまく言ったもの
太陽や月の高さは制御できぬもの
かならず天狗(ラーフラ)に食べられる
崖の赤い石は制御できぬもの
かならず5つの雷に打たれるもの
リン国の兵馬は制御できぬもの
かならず死ぬが埋葬されぬもの
そう言い終わると、法王(チューギャル)は鉄の弓で黒毒矢を引いた。瞬時に火炎を噴射し、毒矢は黒煙とともにテンマのほうへまっすぐ飛んで行った。まさにテンマの鎧(よろい)に当ったとき、鉄の鎧はそれをはねのけた。英雄テンマは高笑いした。
「ジャンの法王よ、愚か者よ、おまえの矢でわしの鎧を射抜くことはできないのだ。おまえたちジャン国がわれらの塩湖を奪ったのは明々白々。それなのにリン国が奪ったとよくもまあ、白々としたことを言うものだ。おまえとサタム王はリン国の領域を侵犯してきた張本人である。どれだけの罪を犯してきたことか。それなのにわれらが制御できぬとは、冗談も休み休みにせよ。ここでおまえはわれテンマとかちあうことになった。それではこの青鋼刀を受けてみるがいい」
テンマは馬に鞭打って法王の近くに飛び、青鋼刀を一振りした。その直後、テンマは法王の首級をぶらさげていた。ジャンの兵士たちは統帥が殺されるのを見て、パニックに陥った。テンマは無数のジャンの兵士を切り殺し、ジャン軍は壊滅状態に陥った。
リン国の武将のなかで筆頭にあげられるのはテンマ
ジャン国の法王(チューギャル)クンガ・ジグメ
不覚にもメルツェは捕らわれの身となってしまう
メルツェを取り戻すために両軍の戦いが勃発