チベットの英雄叙事詩 

ケサル王物語 

36  ジャン国、サタム王が殺され、滅亡 

 

 ここ数日間、ジャン国に動きはなかった。ケサル王とリン国の英雄たちは塩湖のほとりに駐屯し、ジャン軍の反撃にそなえていた。ある夜、ケサル王がうつらうつらとしていると、天の叔母ナムメン・カルモが彩雲にのってやってきた。彼女はケサルに向かって歌った。

 

ああ、甥よ、トゥパ・ガワ(ケサル)よ 

静かに叔母の歌をきくがいい 

神の子は天にあっては願うもの 

下の世界に行ったら悪を倒し弱い者を助けたいと 

でも妖魔を倒すときは用心深くなっりなさい 

人はみな安楽を得たがるものです 

明日の朝、太陽の光が見える頃 

あなたはジャン王サタムと会うでしょう 

妖魔と対決するとき油断は禁物 

サタムは黒魔物の神変です 

その口から雷のごとき怒声がとどろくでしょう 

背は恐ろしく高く、天にまで達します 

頭髪は一本一本が毒蛇で、うごめいています 

大軍ではかえって捕えることができません 

あなたはひとりで戦いなさい 

あなたは愛馬キャンゴ・ペルポを 

白檀の木に変身させなさい 

あなたは300本の灌木から 

10万の矢を作りなさい 

そして木の葉から 

鎧(よろい)兜(かぶと)を作りなさい 

そして森と谷を作りなさい 

サタム王は王宮を出て森を散策するでしょう 

森を歩き、谷を渡り、山を越え 

湖が見えたら心ときめくでしょう 

喜んで水浴びをすることでしょう 

トゥパ・ガワ(ケサル)よ、あなたは湖の中でサタム王を待ちます 

そこで金の目をもつ魚に変身するのです 

喉の乾いたサタムが水を飲むとき 

あなたは水といっしょにサタムのおなかに入ります 

あなたはおなかのなかで千の輻(や)をもつ車輪に変身します 

彼の内臓はズタズタに引き裂かれるでしょう 

そしておかゆのごとくドロドロになるでしょう 

 

 ケサルははっとわれに返り、とても喜んだ。彼は天の叔母が歌ったとおりにおこない、サタム王を滅ぼした。

 ジャン国の兵士らが塩湖のほとりでサタム王の遺体を発見した。何が起こったのかだれにもわからなかったが、すぐに王妃のペマ・チュードンに知らせた。

 この王妃はもともと天から下降した天界に属するものであり、神通力をもっていたので、報告を待たなくてもサタム王が死んだことを知っていた。知らせをもってきた大臣にたいし、王妃は顔色ひとつ変えず、冷静に言った。

「多くを語る必要はありません。サタム王は死にました。それは避けられない定めなのです。もし私の忠告を聞いていたなら、このような死を迎えることはなかったでしょう。彼はそもそもリン国を侵略しました。塩湖を独占しようとしました。自ら死を求めたようなものです。

いま、私は世界獅子王ケサルと会う必要があると考えています。私ペマ・チュードンは、ケサル王の王妃であるセンチャム・ドゥクモ、メサ・ブムキとも会うべきでしょう。人の一生には三度の節目があるといわれます。ドゥクモは人生の半分をホルで過ごしました。メサは一生の半分を魔国で過ごしました。私も一生の半分をジャン国で過ごしました。

余生はタクツェ王宮で、静かで安泰の日々を過ごすことになるでしょう。あなたがた兵士は、なにも恐れる必要はありません。ただ以前の罪を反省してほしいだけなのです。もう民を圧搾し、苦しめるようなことはしないでください。ケサル王にはあなたがたのために、一定の配慮をしてもらうよう私からも頼んでみます」

 王妃の話を聞いて、だれも一言も発しなかった。大臣のパクトゥだけが怒りをおさえられずに言った。

「王妃さま、そのようなことはどうでもいいのです。われらのサタム王は亡くなったのです。まるで太陽が天狗(天の犬)に食べられてしまったかのようです。われらは十分辛酸をなめました。でもいまだ、仇をとったわけではありません。恨みも消えていません。それなのに投降せよとおっしゃるのですか。仇をうたない臆病者は、キツネとおなじ。飯代を払わぬは、小人物のすること。わたくし、男児たるもの、かならず王の仇をとってみせます」

「大臣パクトゥよ、あなたは忘れたのですか。われらは国王にむかって塩湖など必要ない、兵を出すことはないといさめたのを。でも国王は聞く耳をもたず、戦いを仕掛けて、それが戦争に発展してしまったのです」

「王妃さま、いまさら起こったことをあれこれいっても仕方ありますまい。戦争は起こってしまったのです。満ち足りているときに意気を上げる必要などありません。苦しんでいるときに、しょんぼりしていてもはじまりません。わたくしは大臣であり、勇士です。ジャン国と命運をともにすると誓いました。落ち込んでいるひまはありません。ケサルはこの城をも攻撃しようとしているのです」

 大臣はそう言うと、黒魔神の護身衣を着て、九つの角がついた黒鉄の鎧(よろい)をその上にはおり、鉄の腰刀をさし、黒鷹飛馬に乗って、リン軍の本営に向かって一直線に疾駆した。

 そのとき獅子王ケサルは愛馬キャンゴ・ペルポに乗って、高所から四方を眺めていた。遠くジャン国の方向から、黒馬に乗った黒い人の姿が近づいてくるのが見えた。ケサルは水晶刀を抜き、この黒い人の胸を刀で貫いた。大臣パクトゥは馬から落ちて地面に激突した。

 一方リン国の兵士たちはジャン国の王宮を攻撃しているところだった。しかし王宮の守備を担当していた老大将チュルラ・ゴンポは難敵だった。王宮から出てきた彼は、出会ったリンの兵士をつぎつぎと切り殺した。またリン国の金旗を踏みつけ、大テントをひっくり返した。リンの兵士が放った矢は彼に当たっても茅のように、へなりと曲がって落ちた。刀で彼に切りつけても、棒でなぐったかのようで、キズをつけることはできなかった。戦いに80人の英雄が参加したが、彼らをもってしてもチュルラ・ゴンポを倒すことはできなかった。

 それから数日間、毎日この老大将は王宮から出てきてはリン国の兵士と戦った。兵士の遺体は積み上げられ、山のようになったという。もうほとんど手が付けられなくなっていた。獅子王ケサルでさえ手をこまねいているしかなかった。

 ある夜、チュルラ・ゴンポが意気揚々と王宮に戻ったあと、リンの英雄たちが集まって討議をしていると、突然ケサルの愛馬キャンゴ・ペルポが口を開いた。

「英雄のみなさん、あなたがたは武芸にすぐれ、とても強く、よく戦っています。しかしチラを倒すにはいたっていません。だからといってふたたび戦いを挑むのは、無駄な行為です」

「チュルラは死なず、ジャン城は破れず、われらはどうやって兵を収めるというのか」とテンマが口をはさんだ。「ケサル英雄王の事業はどうやって完成させるというのだろうか」

「テンマどの、そう焦らないように。何もないとき、わたしは口腔をひらきません。ひらくということは、自分の主張があるということなのです。あす太陽が山を照らす頃、チュルラはまた王宮から出てリンの本営に入ってきます。英雄のみなさんはテントの足元をしっかりかためてください。チュルラと力比べなどがしないでください。彼はそのあとジャンの城にもどっていくでしょう。帰りがけ、わたしと30頭の馬が彼を阻止します。わたしは待ちかまえて彼をわたしの上にのせます。それから空中を飛んで、毒湖の真上に来たときに、彼を振り落とすのです。彼は毒湖のなかでバラバラになってしまうでしょう」

 キャンゴ・ペルポが話し終えると、リン国の英雄はだれもが喜んだ。キャンゴ・ペルポはなかなかなことでは口をひらかず、ひらけば的確なことを話すことは、だれよりもケサル王が知っていた。チュルラ・ゴンポの命運はこの馬に託されたようなものだったので、英雄たちはこのことにこれ以上煩わされることはなかった。

 翌日チュルラ・ゴンポはふたたびリン国軍の本営に攻め入ってきた。勝利をおさめて王宮にもどる途中、キャンゴ・ペルポの計略にはまって、気がついたらこの馬の背にまたがっていた。見るとこの馬の背の両側から緑色の羽根が生えてきた。気づいたら馬は飛翔をはじめ、天高く舞い上がっていた。チュルラ・ゴンポはなんとかたてがみにしがみついたが、毒湖の真上に来たとき、馬が体を傾けると、まっさかさまに落ちた。毒湖からは黒い泡が不気味に噴き出していた。そこに落ちると、チュルラ・ゴンポの体の皮や肉は溶けていった。どす黒い湖面には、白い骨だけが浮いていた。

 老大将チュルラ・ゴンポが毒湖に落ちたという情報はすぐにジャン国にもたらされ、王宮のなかはパニック状態に陥った。ジャン国はいわば最後の砦を失ったわけで、もはやリン軍と戦えるだけの戦力をもっていなかった。生き残った大将軍は、ツァマル・キェルキェとユタプだけになってしまった。このふたりで話し合った結果、ギャリンに救援を求めることにした。

 しかしその計画を知った王妃チュードンはそれに反対した。

「お二方に言いたい、もうこれ以上の無駄な抵抗はやめてください。救援を呼んだところでどうなるというのでしょう。リン国の英雄たちに矢を当てたところで射抜くことはできないし、刀で切りつけたところで傷ひとつ負わせることができません。矛で鎧兜を突いたところで、棒で突いた程度のダメージしか与えられません。いま天上は神兵で満ちています。海中は竜兵で満ちています。地上はリン軍の兵士で満ちているのです。あなたがたにはもう逃げ場がありません。もしジャンの国にとどまるなら、ケサル王がこの城に入ってきたとき、ふたりにかわってわたしが命乞いをしましょう。もしかするとジャン国にとどまることができるかもしれません」

 ツァマル将軍はこのようなことは聞きたくなかった。あざけるような笑いを浮かべながら彼は王妃に言った。

「ははん、女人は正道のことを言えないと人はいうが、まさにこのことだな。大ジャン国の王妃ともあろうかたが、あの小童(こわっぱ)のジョルに投降したいとはな。笑止千万! ペマ・チュードン王妃よ、投降したければ、おひとりで投降されるがよい。われらは戦士たる将軍として投降などできぬわ。ジャン国の金銀財宝を人にあげることはなさいますな。われらはそれらを焼く所存です。まちがっても土の下には埋めないでいただきたい。われらは救援を求めに行きます。あなたの望みは望みでしかありません」

 王妃チュードンはツァマルにいわれていっそう心苦しくなった。

「あなたがたは生死というものを知らないのです。わたしの言葉を聞かないのなら、それはあなたがたの死を意味します」

 王宮の門を出たふたりはまず金銀財宝が保管された宝庫を焼き払った。それから馬に乗って城を出たが、しばらく行くとリン国の大英雄テンマと出会った。

 テンマはもともとツァマル・キェルキェに投降を促すつもりでいた。ツァマル・キェルキェも投降するつもりでいたが、王妃に勇ましいことを言い放ち、宝庫まで焼き払った手前、あとに引けなくなってしまった。彼はテンマに切りかかった。しかし一回刀が触れ合っただけで、つぎの瞬間ツァマルはまっぷたつに切られていた。

 勝利を得たリン国の兵士たちはなだれこむように王宮のなかに入った。英雄たちは勝利を記念し、ケサル王に向かって敬酒の歌をうたった。

 

ドン族190の家族 

みな英雄ケサル王を尊敬します 

国王の神威ははかりきれないほどです 

その力でジャンのサタムを制圧しました 

 

ジャン国の妖魔は滅びました 

リン国の兵士は意気揚々としています 

われらはジャン国の民の憂いを除きました 

良民はみな平安を得たのです 

 

天空に黄金の太陽が昇ります 

世界中が陽ざしを受けて温まります 

草原にはいい牧草が生えます 

牛や羊は甘く、香りのいい草を食べます 

 

われらの手中に金竜の椀があり 

椀のなかは四種の甘露酒が満ちています 

東方の中国の赤い糠の酒 

西方のインドの白い糠の酒 

ロン部落の葡萄酒 

デモション(シッキム)の白米酒 

飲めば天より高く昇った気分 

飲めば心は日月より清らか 

 

 英雄たちは酒を飲み、歌をうたった。ジャン国王妃チュードンは左手に王子ユティをかかえ、右手に王子ゴンティをかかえ、獅子王ケサルと対面した。

 ケサルは母子三人を迎え、慰めた。

「王妃チュードンよ、恐れることはありません。あなたがたは何も悪いことはしていないのです。ユラ王子はすでにリン国にいます。あなたたちもリン国に行って再会することもできます。リン国の東に赤いサンゴで作った城があります。そのなかにトルコ石でできた宝座があります。親子4人でそこで暮らしたらいいでしょう」

 王妃とふたりの王子はひざまずいて礼を述べ、そのほかにも感謝の言葉を口にした。

 獅子王ケサルは王妃親子を安心させたあと、テンマら英雄戦士に命じて焼け残った金銀財宝、絹の布、食糧などをもってこさせ、一部をリン国に運ばせ、リン国の貧しい民衆に分け与えた。ケサル王はそのあと自軍の兵士らとともに、リン国に戻った。これ以降、リン国とジャン国は仲のいい友好国となった。

 


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漫画版の天の叔母ナムメン・カルモはかわいくて色っぽい 



天の叔母ナムメン・カルモのお告げの通り、ケサルは蜂に変身し(左の文では金の目の魚)水浴びをするサタム王の体内に入る。ケサルは車輪に変身し、サタムの内臓をズタズタに切り刻み、殺した。


ジャン国の将軍チュルラは、難敵中の難敵だった。リン国の将軍たちが倒せないのを見かねて、神馬キャンゴ・ペルポがチュルラをのせて毒湖の上空まで飛んでいき、そこで彼を湖に落として殺した。



アントマン(アメリカン・コミックのヒーローで2015年に映画化された蟻男)のように、魚や蜂に変身してジャンのサタム王の体内に入って大暴れするという案は、天の叔母で守護神のナムメン・カルモが提案したものだった。


しかし漫画版では失敗。ケサルが変身した魚は吐き出されてしまった。