チベットの英雄叙事詩 

ケサル王物語 

40  モン国を滅ぼし、シンティ王を殺す。世界四大魔王を倒したことになる 

 

 降魔の日とされる29日がやってきた。ケサル王はこの日が妖魔を倒す日であることを天の叔母ナムメン・カルモから教えてもらっていた。

 ケサル王は玉山の麓のグニ草地にやってきた。そこに駿馬に似た岩があり、岩の上に、ヤクに似た鉄の塊がのっていた。鉄の塊は頭蓋骨で装飾され、血のしたたる人の腸がかけてあった。ケサル王はこの凄惨な光景を見るにしのびなく、すぐに鉄の塊の下に飛んでいき、そこにあった扉を開いた。

 なかに部屋があったが、真っ暗でよく見えなかった。よく目を凝らすと、右には9つの頭を持つサソリ(
sdig pa rva tsa)がいるのはわかった。これはシンティ王の「寄魂」の生き物である。その左には、銅のヒゲが生え、尾が鉄でできた9つの頭を持つタワ(地鼠 bra ba)がいた。これは魔臣クラ・トクギェルの「寄魂」の生き物だった。

 ケサルは冷静沈着にサソリとタワを弓で射て殺し、天の叔母に言われたとおり、振り返ってから立ち去った。弓矢だけがこの妖魔の寄魂生物を倒すことができるのであり、失敗すれば振り返ることができないのである。

 モン国の領域でさまざまな災害が頻発するようになった。天上には帚(ほうき)星が現れ、山の上には大火が発生し、鷲は大声で笑い、地上に赤い炭の水があふれ、囲炉裏に架けた白銅鍋が割れて8つに分かれ、神堂のなかの獅子と虎の柱に毒蛇が巻き付き、馬小屋の馬が虎に食われ、水の流れる神湖が氷結し、神山の黄金の城塞が崩壊し、シンティ王の宮殿の黄金の梁が切断した。縁起の悪いことがつづき、人々の心はこれ以上ないほど不安でいっぱいになった。

 公主メトク・ドルマは夢を見た。バラ・ユロン地方に貝殻の雪が降る夢を見た。天空に雷鳴がとどろき、牛の上に水晶の霜が降りた。南方の地方に4つの太陽が出現した。雪山が変成し、風化して岩山になった。貴婦人らが北方へ連れ去られた。中部の山の上で激しく火が燃え、まだらの虎が焼けた。とても広い草原があり、花のまだら模様の輝かしい若い豹がいた。美しい蓮の花があり、マチュ(黄河上流)の谷の氷湖で成長していた。モン国の真ん中に平原があり、野草が突然ヒューヒューという音を発し始めた。

 メトク・ドルマは、モン国中が災難にみまわれ、自分の夢もこのように不吉なものばかりで、このようなことが何を意味しているのだろうかと不思議に思った。

 公主は香を焚いて、もっと温和な夢が見られるよう神に祈った。メトク・ドルマが見た夢の意味は明白だった。降る貝殻の雪というのは、梵天が大雪を降らすということを象徴していた。天上の轟く雷鳴、そして牛の上の水晶の露というのは、牛の眷属であるシンティ王の身に災難が降りかかることを意味していた。太陽が四方から出現するというのは、尊敬すべき大臣クラ・トクギェルの権威が失墜し、権力を失うことを象徴していた。雪山が変成し、風化して岩山になるのは、モン国の受難を象徴していた。美しい蓮の花がマチュの谷の氷湖で成長するのは、女子供が敵にとられてしまうことを象徴していた。

 公主は思えば思うほど怖くなった。もしリン国が自分のために来たのだとしたら、モン国との結縁のために来たということになる。それならモン国のためにリン国に嫁入りするのがよかろうかと思うにいたった。公主は王宮のなかに入り、リン国の呼びかけに応じて結婚の申し出を受けたい旨を告げた。これによっていま起きつつある戦争を防ぎたいと考えたのだった。

 しかし寄魂の生き物であったサソリが死んでしまったため、シンティ王は文字通り魂が抜けたような「ふぬけた」状態になっていた。魔王の本性はかろうじて残っていたので、なんとか持ちこたえていた。それでも娘をリン国に嫁がせるなどとうてい認めることはできなかった。

「娘よ、おまえはわが国の宝。父にとっても、おまえは掌(たなごころ)の上の真珠である。国のことは心配しなくていい。いにしえの言葉にあるであろう。

小さき心の目は苦しみの源泉であると。夢の中では、人は空に昇ることができるからこそ地面に激突する。夢の中では、山に登るからこそ水に落とされる。夢の中では、人は翼がなくても空を自由に飛び回ることができる。

小さき心の目は苦しみの先兵である。肝が小さければ、器は小さい。器が小さければ、苦しみはますます人にまとわりついてくる。苦しみの心のなかから生み出されるのは幻想ばかりである。キツネは耐えきれずに、しっぽを巻いて逃げ出すだろう。

六つの技をもつ虎は、あえて犠牲となることを願うという。病気は前世の業(ごう)の災難によるものである。死は運命によって定められているものである……。娘よ、国のことは憂えなくてもいいぞ。わしのことなら、どうせあと一日かそこらの命なのだ。だから国や父親のために、おまえがリン国に嫁ぐようなことを望んではいないのだ」

 公主メトク・ドルマは父王の王宮を出たが、心が休まることはなかったので、宮中の自分の部屋に戻った。彼女はまさに父王が自分から永遠に離れようとしていることを感じ取っていた。大臣クラ・トクギェルもまたモン国にその身をささげようとしていた。それにたいし自分は何をしようとしているのだろうか。やはりリン国に嫁ぐしかないのではあるまいか。

 リン国軍はまた進軍の角笛を鳴らした。リンの英雄たちはいっせいにモン国の兵士を殺すべく向かっていった。寄魂の生き物であるタワ(地鼠)が殺されたので、クラ・トクギェルの魔性は消え、うつけた男になっていた。彼はもともと精神力の強い男だったが、いまはリンの英雄たちに取り囲まれ、何もできなかった。シェンパ・メルツェが縄を投げると、それはクラ・トクギェルの首にかかった。英雄たちはこのモン国の大臣をケサル王の前まで引っ張っていった。

 ケサル王はクラ・トクギェルを見て、この人材を失うのは惜しいと思った。ホルのメルツェやジャンのユラ王子のように、降伏したあと、リン国の将軍に取り立ててやることも十分考えられた。

「クラ・トクギェルよ、思うにあなたは英雄である。わたしはあなたに死んでほしくないので、許すつもりでいる。ただし私がモン国の大将を、すなわちシンティ王を倒すのを手伝ってほしい。これが終わればわれわれはリン国に戻ることになる。私はあなたに3万戸を封じ、あなたのために宮殿を建て、財産も分けたい。それについてあなたはどう考えておられるか」

 クラ・トクギェルはケサル王の話を聞いてもほとんど動じていなかった。ただ怒りの眼でケサル王をじっとみつめていた。

「この糞ジョル、慈悲を装う偽善者め。婚姻を口実にモン国に攻めてくるとはな。だがこれは誓約に違反しているだろう、卑怯者よ。三界の痛みつけられた者たちの罪を軽くせよ。そうでなければ九度死んだほうがましだ」

 そう言いながら彼はボロボロと涙を落とした。このまま死んでいくのは、不当な仕打ちといわざるをえなかいと感じているのだ。

 英雄たちはこのクラ・トクギェルの態度を見て無礼だと思い、口々に「たたっ斬れ!」と叫んだ。

 クラ・トクギェルが殺されたとき、ほぼ同時にリン国の3人の呪術師がモン国のテウラン独脚魔鬼大師(The'u rang bla ma rkang gcig)を倒した。

 リン国の大軍はシンティ王の魔宮に接近していた。モン国の勇士ドンデン・ウーカルは魔宮の屋上のバルコニーで弓をひきながら歌った。

 

トンビが守る山頂で 

正当の理由なく罠を仕掛けるのはなぜ? 

天山で雄鹿が青草を食べている 

狩人に角を取られることになるのはなぜ? 

山奥の谷川を思うままに泳ぐ魚 

なぜ針に引っかからねばならぬ? 

シンティ王は身を粉にして城塞を守っている 

それなのに百万の大軍によって民とともに殺されるのはなぜ? 

 

 聞いたことがないような話だったので、テンマは思わずかっとして言った。

「もし正当な理由がないというのなら、物を盗りに入った強盗が入った理由を忘れるようなものだ。以前モン国の軍隊がリン国を侵略したことを忘れてしまったというのか。われらの牛や羊、ラバをどれだけ盗っていったか、覚えていないのか。リン国の無辜の民をどれだけ殺したか、記憶にないとでもいうのか。われらリン国の宝、六摺雲錦宝衣がシンティ王の魔宮のなかにあるのをご存じないのか。これでも正当な理由がないなどと、ほざくのか」

「へえ、はるか昔の仇のことをいまだに言っているのかい。あんたの着ている緑色の衣はいかれたやつにふさわしいね。緑の衣、緑の馬、緑の甲冑、緑の虫が湧いた肉、飢えによって起きる緑の舌、緑の長すぎて動物に適さない草、これは鎌で切るしかない……」

「緑は悪い色ではないぞ。天は緑色で甘露もそこから生まれてくる。山は緑で、だから牛や羊も群れを成す。田畑は緑色で五穀を生ずる。剣は緑色で敵をよく斬ることができる。われテンマは緑色である。だから敵をよく倒すことができるのだ!」

 テンマはそう言いながら矢を放った。同時に青年ドンデン・ウーカルも矢を放った。ふたつの矢は空中でぶつかり、砕け散った。ドンデンは間髪おかず、つぎの弓を引いた。テンマも同様だった。テンマの矢はドンデンの兜(かぶと)の真ん中に命中した。それは頭の上の部分を吹っ飛ばした。ドンデンは魔宮の屋上から転落した。

 このときシンティ王の魔宮に火事が発生し、炎は宮殿全体を包み込もうとした。霞のなかに火柱があがり、まるで白雲が焼けているかのようだった。

 じつはシンティ王自身が侍従たちに命じて火をつけさせていたのだった。火に包まれるなか、シンティ王は必死に火の神に祈った。すると天空から突然魔のはしごが降りてきた。王は堂々とそのはしごを這い上がっていった。王は高く上がっていき、雲の中に姿が見えなくなった。

そこに突如として一本の矢がうなりをあげながら飛んでいった。空中から愛馬キャンゴ・ペルポに乗ったケサル王が射たものだった。宮殿の火はしだいにその勢いを弱めていった。

 シンティ王はケサルが放った矢が魔のはしごに命中したのを見て青ざめた。彼自身毒矢をひきながら歌った。

 

青天に秘密の道あり 

偉大なる大自在天に向かって敬礼! 

青い天空にあって 

自在護法神に敬礼! 

不変の大地の上 

チベットの尊神に敬礼! 

われは鳥のように天を飛ぶ 

われは魚のように海にもぐる 

われは歓喜のとき四方自在にある 

われは憤怒のとき八部衆に遭うだろう 

われは青天から武器を投げることができる 

しかしわれは心から喜べない 

ジョル、おまえはわしの敵ではない 

今日こそおまえには死んでもらおう 

 

 シンティ王は歌い終わると、毒矢を放った。それはケサル王にかすり傷ひとつ負わせることができなかった。それにたいしケサル王は冷静に弓をひいた。放たれた矢はシンティ王の胸にかけられた護心鏡に当たり、それを貫いて心臓に突き刺さった。王は悲痛の叫び声をあげると、魔のはしごから墜落し、自分が起こした火の海のなかに消えていった。

 

 こうして世界獅子王ケサルは世界の四大魔王を征服し、苦しめられていた民衆を救い、解放したのである。



⇒ つぎ 







リンとの戦いで犠牲者がたくさん出ていることに胸を痛めた王の娘メトク・ドルマは、戦争をやめるようシンティ王に懇願した。



モンのシンティ王の娘メトク・ドルマ 



シンティ王の寄魂動物であるサソリと戦うケサル 



ケサルは王女メトク・ドルマを連れて、ペガサスのような神馬キャンゴ・ペルポに乗ってモンの王城から脱出した。



シンティ王を倒し、稲が収められた蔵をあけ、祝賀ムードが広がった。これで四方の魔国を征服したことになった。