チベットの英雄叙事詩 

ケサル王物語 

42  トトン、タジク軍に捕まるが、口八丁手八丁でうまく逃げ出す 

 

 タクロン18部落の長であるトトンが青色追風馬を盗んだのは、テンマ将軍の娘を娶るためであり、そのことによってのちにどんな災禍がもたらされるかについてはいっさい考えたことがなかった。タジクの軍隊が彼のテントを取り囲んだときも、彼はまだ寝床のなかにいて、めくるめく夢から覚めていなかった。

 侍女があわててトトンを起こし、彼がいま包囲されていることを伝えた。トトンは魂が飛び出るほど驚き、素っ裸のまま大鍋の下にもぐりこんだ。ここにいると間近で戦っていても見えず、殺しあいの物音も聞こえなかった。

 トトンは思った。勇猛なわが息子が兵士として参加しているのだから、侵入してくる敵など難なく追い返してくれるだろう。そしてすぐ鍋の下から出ていけるだろう。しかししだいに彼はじっとしているのがつらくなってきた。鍋の下は安全だったが、狭すぎたのだ。鍋を持ち上げたかったが、それだけの体力はなかった。ゆっくりと、徐々に、彼は感覚を失っていった。

 突然彼の顔を風がかすめた。彼は息を吸ったが、はためには呼吸してないように見えた。目は大きく見開かれたままだった。手足は痛く、しかし力は入らず、動くことはできなかった。

「おい見ろよ、ここに死体があるぞ」

「ほんとか? 死んでるふりしてるだけじゃないのか」

 太い声がトトンの耳元でこだました。トトンは思い切り目を見開いたが、すぐに閉じた。これはかなりやばい。タクロン部落の人間ではないので、こいつらは敵兵ということになる。どうしたらいいのか。トトンは目を閉じたまま、打開策を考えた。

 そこへ声を聞いたトンチラグがやってきた。地面に倒れているのはあきらかにトトンである。前にリン国に来たとき、宴席で見た主人と同一人物である。

「ああ、これぞ御仏のご加護」と彼は喜んだ。捕らえようとしている相手が自分の手に転がり込んできたのだから。彼は手下の兵士らに命じた。

「このたびの出兵の目的はこの男を捕まえることだった。こいつを縛り上げよ。そしてタジク王のもとに連れていけ」

 タジク軍の騎兵たちはトトンを連れて帰途に向かった。北方の草原に至ったとき、3人の大臣がトトンを連れてくるよう命じた。大臣のひとりナムカ・トクペはトトンがオロオロしている様子を見て、嘲笑いながら言った。

「聞くところによると、トトンは無敵の英雄ということだが、いま目の前にいるのはみすぼらしい年老いた乞食である。聞くところにとると、世界獅子大王ケサルはたいへんな神通力の持ち主であるという。それなのにわしらにとらえられた叔父を救いに来ないのはなぜかな? 聞くところによると、リン国の80人の英雄は生きている人の心臓を取ることができるほどの胆力を持っているという。それなのに彼らの影すら現れないのはいかなる理由からか? 年輪を重ねているあなたがつぎのようなことわざを知らないわけがなかろう」

 長たる者が不節制であるなら、権力はすぐ他人の手に渡るもの。

 富を持つ者が善なるおこないをしなければ、富は他人のものになる。

 貧しい者が食べ物に貪欲すぎたなら、その体は他人のものとなるであろう

 ナムカ・トクペの声は話せば話すほど大きくなり、トトンの体は次第に屈辱の怒りに震えていった。

「われらタジクの宝馬は大鵬の子どもである。すなわち大王が乗るべき馬であり、あなたのような小者が乗るのは許されない。いまあなたがすべきことは、宝馬を連れてくることである。ことわざに言う。

羊の賠償は早いに限る。午後になれば、たとえ馬でも賠償は成り立たない

 もしすぐに宝馬を連れてこられないなら、あなたは命で払うことになる」

 トトンは3人の大臣の前でおびえてヒゲをふるわせながら、土下座をし、左右をキョロキョロ見て、言った。

「ああ、尊敬すべきタジクの大臣さまがた、いにしえの人はつぎのように言いました。

 カラスの罪によって白鳥が泥の穴に落ちることがある。恥知らずの淫婦によって裁判官や高僧が輪廻に落ちることがある 

 大臣さまがたがだれからたわごとを聞いたか存じませぬが、このトトン、馬泥棒ではございませぬ」

 と、トトンはあくまでシラを切った。

「あなたが馬を盗んでダラ王子に贈ったのではないか」と大臣らは語気を強めてトトンに迫った。

「どうか大臣さまがた、お気をしずめてください。わたしの言うことをよく聞いてください。馬を贈ったのは真実であります。しかし馬を盗んだことは、身に覚えのないこと。仲夏の日、リンから来た3人が3頭のおなじような馬をひいてきたのです。そのうちの一頭が追風と呼ばれる馬でした。追風と呼ばれる由来はつぎのような話です。

午前、馬を雪山の山頂にひいていって、獅子とその脚の速さを競わせた。出だしは獅子のほうがよかったのだが、そのうちこの馬が抜いて前を走っていた。正午には水草の多い川辺に出た。そこでは野生の馬と競争をした。やはり最初は野馬が速かったのだが、そのうちこの馬が追い抜いていた。午後、花石山に到着した。ここでは野牛と競争した。やはりはじめは野牛が前を行くのだが、やはりそのうちにこの馬が逆転して前を走っていた。

 彼らはリンの地でこの馬を売ろうとしていました。そこでわたしが買うことに決め、それをダラ王子に贈呈したのです。

 いま大臣さまがたはわたしを処刑しようとしているのかもしれませんが、わたしなど、カラスのようなものです。殺してもその肉は食えたものじゃない。羽根は使い物になりません。わたしをリンの地に戻してくださるなら、ケサル王に報告することができます。そして青色追風をお戻しできるでしょう」

 大臣ナムカ・トクペはトトンが言うことにも道理があると思い、また彼を殺してしまえば追風を捕まえられないこともありうるので、彼を解放するほうがいいという結論に至った。ナムカ・トクペは言った。

「このたびは許してやろう。だが三七二十一日のうちに宝馬をタジクに戻すことができなかったら、そのときは首をはねさせてもらう。そしてリン国はタジク軍によって蹂躙されることになる。わかってるだろうな!」

 トトンは何度もうなずいた。タジクの陣営から一歩でも出たかったのである。ナムカ・トクペはトトンに衣服や靴、帽子、さらに一頭の馬と道中に必要な食べ物を与えた。こうしてトトンは晴れて自由の身となり、リン国へ戻っていった。

 


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