チベットの英雄叙事詩 

ケサル王物語 

43  宝馬を返す意思がないことを知り、タジクの大臣、戦いを決意する 

 

 なんといってもかわいそうなのは、トトンの口八丁手八丁にまんまと騙されたタジクの大臣たちだった。一方、トトンはもとより宝馬の「青色追風」を返却する意思などなく、タジクの大臣たちから与えられた馬に乗ると、ひたすらタジクの陣営から離れようとした。はっきりとしているのは、トトンがリン国に戻れば、そのあとにリン国とタジク国の決戦がはじまることだった。彼が恐れていたのは、彼の計略があきらかになり、また捕まって今度こそタジクへ連行されることだった。

 半日ほど走り、小さな谷川にたどりついたとき、トトンは疲れ切っていた。もう何日も彼は食べることができず、眠ることができず、つねにタジク人に殺されるのではないかとおびえなければならなかった。いま、彼は籠から逃げ出した鳥であり、網から逃げ出した魚の気分だった。まだ心臓の動悸はおさまっていなかったけれど、タジクの陣営のなかにいるときよりは、はるかにましだった。

 トトンがひとときの休憩を取ろうとしていたとき、突然7人の虎の姿をした男たちが行く手をふさいだ。トトンはすぐさま馬から降りて、地面に頭をゴリゴリ押して命乞いをした。

 7人の虎男の首領らしき男は、トトンの態度を不審に思い、たずねた。

「おやおや、ヒゲのじいさん、あんた、どっから来て、どこへ行こうとしてるんだね?」

「わたしはリンのトトンという者です。3人の大臣の前で10日間のいとまを請い、リンに戻って宝馬を連れ戻してくる約束をしたのです。ですから勇士のみなさん、どうかわたしを行かせてください。もし時間が遅れてしまいましたなら、わが生命だけでなく、タジクの青色追風という宝馬も取ってくることができなくなるのです」

「なるほど、わかった。それならば行くがよい。だがおれたちも今日は野獣のひとつも捕まえられず、困っておる。いささかなりとも分けてはくれぬか」

「わたしは五日分の食料しか持っておりません。それであなたがたを満足させられましょうか。ああ、そうだ。こういうのでどうでしょうか。十日後に戻ってくるとき、あなたがたが望む分をお渡しするということで……」

 トトンはこのように身がわりが早く、21日期限を10日期限にして何とか危機を逃れようとした。

 7人の勇士はこのままトトンを行かせようとはしなかった。ある者はトトンが乗っている馬を奪おうと主張した。ある者は彼の食糧袋をいただこうといった。しかしトトンは必死に嘆願した。馬は彼の足であり、馬がなければ老いたる者は進むことができないと。食糧は彼の命である。もしなくなれば、老人は生きていくことができない。

 7人の勇士はトトンからとれるものは何もないことをさとった。そして彼の馬の縄の一部を切り、十日後にここでもてなすという約束をして、トトンを解放した。トトンは心の中がむずがゆくなってきた。十日、十日。もし本当に十日後に来ることがあったら、こいつらを7つの肉団子にして進ぜよう。

 トトンは苦労を重ねながらも、なんとかリンにたどりついた。彼はちょうど集合した部隊のなかにいるふたりの息子と出会った。彼らは父親を救うためにタジクを攻撃しようと準備をしていたのだった。

 トトンは息子をケサル王のもとにやり、自分が戻ってきたことを報告させた。それとともにタジクを攻める軍隊の準備を進めた。彼は勝利を信じて疑わなかった。

「一に、神の啓示があった。鶏とブタの年はタジクに勝つことができるという啓示が。二に、師の啓示があった。人を食べる虎のまだら模様が血を用いて装飾されるという啓示が。三に、ケサル王の啓示があった……」

 

 タジクのナムカ・トクペら3人の大臣はトトンを解放したあと、国に戻り、国王セチニマに報告した。王はこのやり方には不満だった。トトンが仁義を尽くし、信頼に足る輩(やから)とはとうてい思えなかった。トトンとはどういう人物なのか。

 

彼は師の前にいる僧侶 

戒律を破ったときに誓いを恨むような者 

彼は三年の労役が課せられた奴隷 

食べ物がそろったときに主人を恨むような者

若いが富をもつ女 

年老いたときに母親を恨むような者 

 

 トトンはこのような人間であり、信用できないだけでなく、タジク軍の出陣の準備を邪魔したのである。それでも太陽の光が山の峰を照らし、川の水がごうごうと流れるとき、兵士たちは甲冑を着用し、馬の鞍や轡(くつわ)を整え、青色矢筒に鋼(はがね)を加え、彫琢された弓の上に樺の木皮をかぶせ、矛の先に鋭利な刃をつけ、各種刃先に毒を塗り付けた。

 タジク軍の準備は整い、あとは国王の号令を待つだけとなった。セチニマ国王はトトンを待ち続けた。待ちつづけて21日目、トトンに仁義も信用もないことが証明されたのだろうか。じつはトトンは書信を持たせた使者を送っていた。それによると、トトンはリン国に戻る際に強盗の被害に遭い、もうすこしで命を落とすところだった。リン国に着いた頃には蘇り(デーロク)のようにやつれていた。いまジョウォ・タンツ山の麓まで来ているので、国王にはここに来ていただいて馬の返還をおこないたいというのである。

 トトンはやはり信用できる人物であったかと、セチニマ王は喜んだ。大臣シェセらふたりをさっそくジョウォ山に送り、トトンと会って宝馬を取り戻してくるようにと命じた。

 トトンはふたりの大臣がやってくるのを見ると、がっかりした。不満は口ぶりにもあらわれていた。

「このような重要なことがらに関し、なぜ国王自身がおいでにならないのか。王子すらいらっしゃらないではないか」

「王子は体調がすぐれません。国王もまた国務に忙しかったので、われらふたりが派遣されたのです」

 シェセはトトンと言い争いをするつもりはなく、宝馬を受け取ったらそそくさと国に帰るつもりでいた。

「とても遠いものですから、期限に遅れることを恐れて、われらは昼も夜もぶっとおしでやってきました。またもし怪我でもしたらたいへんなので、宝馬はいっしょではないのです。宝馬と馬の世話人はもうすこししたら到着するでしょう」

 トトンの口から出まかせばかりで、宝馬がどこにいて、何日後に到着するのかわからなかった。道中、馬が怪我をするかもしれないというのも理解しがたかった。

 シェセはトトンのウソを見破って、なごやかな雰囲気を壊したくなかった。ただ宝馬の到着を待って、待ち続けて、ついに十日が過ぎた。シェセは毎日トトンの宿営を訪ねたが、トトンはいつも口先ばかりいいことを言って、結局ごまかしているだけだった。

 翌十一日目、我慢ができなくなったシェセはトトンの宿営に入ると、トトンが話し出す前に歌いはじめた。

 

紺青色の天空を 

かき乱すだけの白雲はいらない 

海の水をためこんでも 

必要な細い雨が降るわけではない 

強風が吹き荒れたところで 

それは旱魃の到来の前触れにすぎない 

 

牧場のテントの前に 

だれよりも先に牧童が来たところで意味がない 

草原に乳牛を放牧したところで 

肝心の家畜の姿が見えないのでは仕方ない 

無駄話が終わらないとき 

それは家畜の行方がわからないことを意味する 

 

きれいで整頓された厨房では 

主婦をかまどの前に立たせるべきではない 

酒や肉が庫のなかにあるとき 

食べるべきものがかえって見当たらないもの 

来訪した客人が甘い言葉をならべていたら 

それは家業がすでに傾いていることを表している 

 

このジョウォ・タンツ山の麓で 

叔父を目の前に来させてはいけない 

追風宝馬がリンの国にとどめ置かれているのに 

必要な真心というものは見つからない 

毎日とめどもない話ばかりがつづく 

馬を返すつもりがないということか 

 

「タクロンの長、トトンどのよ。われらは国王の命を受けて宝馬を取りに来ました。しかしあなたは、今日は明日と言い、明日はあさってとおっしゃる。われらの国王は焦るばかりです。今日はもう言い逃れはやめてください。われらタジクの宝馬がいつ到達するのか、はっきり言ってください。ごまかしは言わないでください」

 シェセの両目はカッと開き、トトンを見据えてうながした。

 トトン王に悪びれる様子はなかった。彼はシェセから浴びせられた悪口や罵詈雑言にむかついていた。

 

雪山と獅子はよい組み合わせ 

森と猛虎はよい組み合わせ 

野馬と水辺の草地はよい組み合わせ 

鷲と崖はよい組み合わせ 

獅子とタジク王はよい組み合わせ 

いっしょに事業を成すのはよい友だち 

大臣シェセとトトンはよい組み合わせ 

弓矢と騎馬とを交換できる 

この世も来世も互いに利益を与えられる 

 

「シェセさまの話は人を傷つけるものではありません。われらリンの人間はひとをだましはしません。あなたと話し合えば、両国の関係はうまくいくはずです。武力に訴えたところで、ケサル王が天下無敵であることをだれが知らないでしょうか」

 トトンの話は錐(きり)のようにシェセの心に食い込んでいった。

 シェセは心の中で思った。いい組み合わせだと? トトンは結局馬を返したくないというだけではないか。弓矢と騎馬を交換したいだと? どんなものでも交換はできるが、追風宝馬な交換不可能だ。

「トトンよ、青色追風と何を交換しようというのか」

 トトンは微笑を浮かべながらうなずいた。

「大臣どのが道理をわかっていらっしゃるなら、われら両国の友好関係は永遠につづくでしょうな」

「何を言っておるのだ」シェセは怒りにふるえてうまく言えなかった。ここに至っては話し合いの余地などもはやない。ただ国に戻って国王に報告し、すぐに軍を出動し、リンをこてんぱんに叩きのめすしかない。トトンが宝馬を返す気などさらさらないようだから。

 


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