チベットの英雄叙事詩
ケサル王物語
44
リン国軍とタジク国軍の両大軍は、国境をはさんで対峙した。いつ本格的な戦闘がはじまってもおかしくなかった。
馬事大臣のトンチラグが両軍陣営の中央に躍り出ると、あちらこちらで大声を上げた。
「大王の御前にて、われは法を守る者なり! 両軍の陣営の前に至り、われは白き甲冑をまとう者なり! われは赤い銅の弓をひく者なり! われは赤い馬に乗る者なり! われは仇であるトトンを探す者なり! 近き敵と刀で戦うのは英雄なり! 遠くの敵を矢で狙うのは臆病者なり! 今日こそは両陣営の前でトトン、おまえと正々堂々と戦いたい! さあ、丈夫(ますらお)なら、いますぐ出てこい!」
トトンは姿を現さなかった。トンチラグの挑発的な物言いは、トトンの息子ラグを激怒させた。
「臆病者? 今日はその臆病者の手によって死を賜ってやるわ!」と弓を引くと、放たれた矢はトンチラグの額に命中した。あわれにもタジクの勇士はくずおれて、地面に落ちると、息絶えた。
間髪入れず、ラグは首級を取り、大隊を指揮しながら混乱したタジク軍の陣地に切り込んでいった。そのときちょうどいいタイミングでやってきた大臣シェセ・ラプランが、リン軍に向かって6本の矢を放った。それだけで10人のリン国兵士が殺された。一本の矢はトトンの次男ポンベン・トクグィ・パワに当たり、その甲冑を粉砕した。兜(かぶと)はばらばらになり、木の葉のように、はらはらと地面に舞い落ちた。ここでタジクの兵士たちは落ち着きを取り戻し、攻撃の手をゆるめた。
シェセが10人のリン軍兵士を殺したのを見て、ポンベン・トクグィ・パワは怒り心頭に発し、刀を抜くと、シェセに向かって突っ込んでいった。シェセは一歩もひかず、逆にポンベンに三度切りつけた。しかしポンベンにとって、シェセの刀は蚊がとまっているかのように無力だった。シェセはポンベンにまったく歯が立たないことを認識すると、あわてて馬を起こし、向きを変えて遁走した。
ポンベンはすぐにあとを追い、追いつくと、シェセを一刀両断のもとに切り殺した。落ち着いていたタジク軍の軍馬の脚は、一挙に冷静さを失った。騎士らはあわてて退却しようとしたが、押し出された一部の馬は水に落ち、乗っていた兵士らはおぼれ死んだ。リン軍の兵士たちはいい機会とばかり、タジク軍の軍営に攻め込んだ。彼らは大量の糧食と財宝を手に入れ、喜び勇んでリンの陣営に引き返した。
運よく逃げることのできたタジクの兵士は、急いで王宮に行き、国王セチニマに起こったことを報告した。軍を率いていたトンチラグやシェセが戦死したこと、先鋒部隊が壊滅状態にあることなど、あますことなく伝えた。
セチニマは驚かずにはいられなかった。戦いというものに勝敗はつきものだが、彼の軍隊がこれほどまでにみじめな敗北を喫することになるとは想像もしていなかった。タジク国は堂々たる財宝国である。このまま引き下がるわけにはいかない。国王はあれこれと考えて、結局ふたたび部隊を送り、トトンと一戦を交える決心をした。
国王が送ったこの部隊を率いるのは敵を倒す4種の武芸を持った将軍ツェンラ・ドルジェだった。彼は9つの角のついた青銅の兜(かぶと)をかぶり、火炎のひもの飾りをつけ、赤い銅の鎧(よろい)を着て、綾絹の帯をつけ、石の剣をさし、鳥の彫物の飾りをかけた。また赤い馬に乗り、虎模様の鞍にまたがり、輝く火の飾りがついた矢筒を持ち、それに60本の長寿矢を入れ、必勝霹靂の鉄弓を背負った。さらには100人の勇士が侍従として彼を支えることになった。国王は彼に命じた。
「人生に病気はつきものだが、病気にはかならず原因がある。国の戦争にもかならず原因がある。タジクとリンの戦争の大元をたどれば、原因はタクロンの長、トトンである。彼は灰色がかった黄色のヒゲを伸ばし、雷鳴のごとき声を発するが、肝っ玉はキツネのように小さい、そんな男だ。ツェンラ・ドルジェよ、おまえは日ごろから修練を重ね、稲妻のごとき矢を射るときく。その矢でトトンを射止めよ」
ツェンラ・ドルジェは甲冑を着けて準備万端整えた。彼には国王が望んでいることを心に留めた。出陣してトトンを見つけたら、すぐに捕まえて連行してくること。宮中に連れて来たら、国王自らの手でトトンを屠ることになるだろう。むかつく気持ちはそうやってでしか解消されないのだ。
ツェンラ・ドルジェを迎え撃つのは、しかしながらトトンではなく、トトンの息子であり、また、甥のガシ長官ルンドゥプを長とする3人の将軍だった。前回の戦いでトトンの息子たち、すなわちラグとポンベンがタジク軍にたいし大勝利を収め、トンチラグとシェセを殺したので、リン軍の志気はいやがおうにも高まり、名声と威信は世にとどろくことになった。今度の戦いでは、ルンドゥプは叔父トトンを出陣させ、戦功を建てさせる必要があった。
ルンドゥプにとって、ツェンラ・ドルジェはそもそも眼中になかった。むしろ独りよがりに教え諭そうとした。
白獅子の鬣(たてがみ)は毛が多いほど偉大に見える
猟犬がその姿を偽るならそれはあわれそのもの
老犬はその本分を守るべし
猛虎のまだら模様は多いほど偉大に見える
野キツネの毛並みが輝かしいのはあわれそのもの
キツネは穴倉から出ないほうがいい
ワシが天空を飛翔する
スズメが羽根を広げるのはあわれそのもの
スズメは木の梢の巣にいるほうがいい
野牛は荒野で角を磨く
牛が角をいからせるのはあわれそのもの
老牛は牛小屋でわらのなかにうずくまっていればいい
ここはリン国の兵士が腕前を見せるところ
タジクの兵士がここで命を落とすのはあわれそのもの
みんな家に帰ったほうがいいだろう
「おい、聞くところによるとおまえはツェンラ・ドルジェというらしいな。人よりすぐれているように見えるし、馬はきれいだし、弓矢もきちっと整頓されている。殺すには惜しいな。だから早く逃げたほうがいいぞ。さっさとどこかへ行ってくれ」
ルンドゥプは馬の向きを変え、その場を離れようとした。ツェンラ・ドルジェは言いようもないほどの屈辱を感じただろう。ことわざに言う。
死者は冷たい風を恐れ、生きている者は侮辱を恐れる。
彼は大国タジクの将軍だが、すぐれているかどうかもわからない少人数の者にやられてしまうかもしれない。それが頭にくることであり、悩ましいことなのだ。トンチラグもシェセも敵陣の前で命を落とすことになったのも、こういうことなのだ。頭にきて、それがあだになって死んだのである。
ツェンラ・ドルジェは手綱を引くと、刀をふるってルンドゥプに切りかかった。すでに馬の向きを変えていたので、頭の後ろで空を切る音が聞こえ、振り向いたときには、刀の刃先は目の前にあった。つぎの瞬間、嘘八百を並べていたルンドゥプの頭部は、体から転がり落ちていた。
このとき二人の将軍もツェンラ・ドルジェに切りかかっていたが、逆に刀のひとふりで二人とも切られてしまった。命はまだ残っていたが、鮮血があふれ出て池のようになった。この時分にはツェンラ・ドルジェがただならぬ力の持ち主であることが知れ渡り、リン軍の兵士たちには交戦を避け、逃げる者も出始めた。ツェンラ・ドルジェは彼らを追ってリン軍の陣営奥深くにまで入っていった。そして仇を一挙にとろうとするかのように、出会う人にみな切りつけ、殺した。リン軍はもはや崩壊寸前だった。
このときラグとポンベンの兄弟がもどってきた。ツェンラ・ドルジェはこの二人の英雄にはかなわないと考え、退却をきめた。
タジク王セチニマはツェンラ・ドルジェの戦功を自ら祝った。つづいて国王はツェンラ・ドルジェに馬尾条軍五万の兵を、ナンラ・ガキュンに白条軍五万の兵を、ミナ・ドダンに黒条軍五万の兵を率いて、リン軍が占領するサンガ灘の向かいの雪山の麓の丘陵に進軍し、軍営を築くことを命じた。
リン軍の兵士たちは、タジク軍が向かいの丘の上に軍営を築いたのを見て、空の星々が集まってひとつになったかのように思った。年をとった人々は、タジク軍と戦うのは無理で、リン軍では相手にならないのではないかと恐れをなした。一方若い人々は自分の力を試したかったので、引き下がりたくはなかった。
タクロンの長、トトンはとくにこれといった考えがあるわけではなかったが、タジクを打ち破りたいと考えた。しかしタジクに勝つのは容易ではないことも知っていた。不安に駆られたトトンは占いを試みた。卦の言葉はつぎのようなものだった。
三歩踏み出せば戦利品が得られる。三言話せば勝利が得られる。だからすぐにはじめなさい。
タジクの人が何もしゃべらないということはありえなかったので、若い兵士たちは勇気づけられた。トトンもしり込みする必要はなくなった。
翌日、ラグが陣営の前に出て、歌をうたった。
男子が英雄であるか意気地なしであるかを
一日の運不運で語りたがる
馬が速いか遅いかを
一晩のまぐさが足りるか足りないかで語りたがる
兵器がすぐれているかどうかを
ひとりの人の武芸の優劣で語りたがる
「ツェンラ・ドルジェよ、敵を歓迎しないキツネよ、食べようとしない餓鬼よ、答えることのできない聾唖者よ。われは第一におまえの頭をはねて、神のささげものにするつもりだ。第二に、食糧本営を踏み潰す予定だ。第三に、川の水の色を赤く変える予定だ。これらを成し遂げなければ英雄とは呼べないだろう」
じっとしていられなくなったツェンラ・ドルジェは、陣営から飛び出し、ラグを指さしながらののしった。
意気地なしのキツネよ
美しい虎の紋様を身にまとうことはない
ちっぽけな駄犬よ
獅子の緑色の鬣(たてがみ)を生やすことはない
雷鳥(ライチョウ)の翼の下で
神鳥ガルダを孵化することはないだろう
キツネのごときペテン師トトンから
英雄が生まれることがあるだろうか
あわれなる者よ
翼の力がないワシの未熟児よ
天空を飛翔するはずが水面に墜落
脚力のない獅子の未熟児よ
雪山を飛び跳ねるつもりが緑の鬣(たてがみ)を傷つける
斑紋が現れていない虎の未熟児よ
家畜を襲うつもりが爪と牙で大怪我を負う
武芸もろくにできない人の未熟児よ
出陣して命を失うだけ
おまえは祖先の城を守るのが本来の役目
戦いの最前線に出てくるべきではないだろう
「おまえの親父がわれらの宝馬を盗んだのは許しがたい。宝馬を取り返すために、われらは兵を動員したのだ。もし素直に馬を返してくれたら、われらは責任を追及しないし、両国の関係はむしろよくなるだろう。もしいま宝馬を返さないなら、おまえの命はないと思え」
ツェンラ・ドルジェがそう言っているときに、ラグの刀が降り下ろされた。ツェンラはすかさず稲妻のごとき赤い縄を投げて応じた。野牛の胸毛、猛虎の背中の毛、ヤクの脚の毛、ディ(乳牛)の毛を編んで作ったこの縄は強力なパワーを持っていた。縄は天に向かって投げれば雲を、あるいは暴風を捕らえることもできた。縄はラグの首を捕らえた。ツェンラ・ドルジェがぐいと引っ張ると、ラグは馬の背中から落下した。
ラグは必死の形相でもがいたが、もがけばもがくほど縄がのどに食い込んだ。刀で縄を切ろうとしたが、縄には傷ひとつつかなかった。ラグはワーワーと叫び始めた。ほとんど意識が薄れかけたとき、馬に乗ったポンベンがやってきて、全身の力をこめて刀で縄を切断した。ラグは窒息寸前のところで助かった。ポンベンはこれ以上戦うのは困難だと判断し、ラグをかかえて陣営の奥へ退いた。ツェンラ・ドルジェも深追いはしなかった。リンの兵士たちも陣営に戻った。
タジク軍とリン軍の両軍はそれぞれの宿営地に幕舎を建ててとどまった。酷暑がつづき、動けば汗が止まらなかった。そして七日目、すこし涼しくなった朝、突然タジク軍の軍営から白馬に乗った、白い兜をかぶり、白い甲冑をつけ、白い法螺貝の剣をさした白い人が躍り出た。この武人こそタジク国の将軍ナンラ・ガキュンだった。
ナンラは稲妻のように颯爽と登場し、まずリン軍の軍営の右の門から入り、金甲軍の百人以上の兵士を殺した。そして隣の中軍の幕舎に闖入すると、ラグとポンベンが必死に抵抗した。虎の幕舎には父親のトトンがいたからである。
赤房軍の30人を殺したあと、ナンラは左の門から中に押し入った。リンの兵士たちは奇襲に驚き、大混乱が引き起こされた。彼らは身を隠そうとしたが、身を隠せる要塞はなく、逃げようとしたが道までいたらず、空に逃げようにも翼がなく、地下に逃げようにも穴を掘る爪が短すぎた。ナンラは白房軍の兵士10人を殺した。このときには、彼の白馬は血を浴びてサンゴのように赤く染まっていた。彼は剣をかかげたままリンの軍営から出て、タジクの軍営に戻った。
タクロン部落の長、トトンは幕舎からおそるおそる顔をのぞかせた。
「い、いまの人はどこへ行った? 追え! もしいま追わなかったら、いつもびくびくしていないといけないからな」
ラグとポンベンら4人の勇士が馬に乗って、リンの陣営から出てナンラを追った。ポンベンが射た矢はナンラに当たったが、傷ひとつ負わなかった。ナンサも対抗して矢を射たがひとつも当たらなかった。ふたりは刀を持って対決したが、勝負はつかなかった。ポンベンはナンラにまったく隙を見いだせなかったので、心中焦りを感じた。そして大きな声を発すると、突っ込んでいき、ナンラの腹に刀を刺した。瞬時にナンラの腹部から内臓が流れ出た。彼は凄惨な声をあげると、ポンベンに乗りかかり、剣を肋間に刺した。ふたりの英雄はともに馬から落ちて息絶えた。
リン軍は前代未聞の挫折を味わった。タジクのナンラは巨大なリン軍の軍営を文字通りひっくり返した。人はばたばたと倒れ、馬もつぎつぎと死んでいった。ナンラは死んだけれども、リン軍はトトンの愛息子や将軍ポンベンをはじめ多数の犠牲者を出した。トトンは敗北を認めざるを得ず、臍(ほぞ)を噛む思いをした。
大臣らが緊急に招集され、どうすべきかの話し合いがおこなわれた。道はひとつだけあった。リンに戻り、ケサル王に懇願して自ら出兵してもらうのである。トトンは3人の使者を派遣した。ケサル王に面会できれば、善処してくれるだろう。しかしもし王が来られないなら、どうすべきか皆目見当がつかなかった。ともかく3人の使者は(贈り物の)お金と隠れ蓑のマニ車を持ってリン国へ向かった。