チベットの英雄叙事詩 

ケサル王物語 

45  ケサル王の後継者ダラ王子率いるリン軍、タジク軍に緒戦は勝つも、次戦でボロ負け 

 

 ケサルは叔父トトンが救援を求めて自分の王宮に使者を派遣したと聞いたので、すぐにリン六部落の兵を集めた。兵士らは旗や幟(のぼり)をたて、太鼓を鳴らし、法螺貝を吹いた。数人の侍従が見張り塔から遠望すると、3人の使者がやってくるのが見えた。

 使者は到着すると、出された酒もお茶も飲まず、タクロン部落とタジクの戦いについて報告し、ケサル王にタジク出兵を懇願した。

「世界獅子大王さま、うるわしき蒼天のもと、四方をあまねく照らす太陽よ。もし輝く光明がなければ、四洲は永遠に闇に閉ざされていることでしょう。茫々と広がる草原に甘露のような慈しみの雨が降らなければ、草原は荒地に変じてしまうことでしょう。タクロンにとって、リン国は本家です。本家の兵力は強大で、軍馬は頑丈でたくましく、分家にとって頼りがいのある存在です。もしいま、すみやかに援軍を送っていただかなければ、タクロン軍は大損害をこうむることになってしまいます」

 ケサルはこの報告を聞くと、黒い山の上に現れた名月のような笑みを浮かべた。家臣の大臣らは黙したままだった。3人の使者たちは焦りを覚えた。だれも話さないどころか注意も払っていないようだった。

 ケサルは心の中で考えた。すべてはトトン自身によって引き起こされた事態である。自分が種をまいて発生したタジクとの戦闘が、分が悪くなったからといって、なぜ私が援護しなければならないのか。ただし予言のなかに「木虎年、タジク財宝城を攻め、財源を開発せよ」という文言があったではないか。これはいまこそタジクを攻撃せよということではなかろうか。

 援軍を出す決心を固めると、今回の出征はダラ王子に率いさせるべきだとケサルは考え、兵を集める命令を下した。

 

リン国上部のセルパ軍よ 

黄色の馬に乗る黄色く輝く黄色の人々よ 

金の鳥が平原に散らばったかのよう 

 

リン国中部のオムブ軍よ 

赤い馬に乗る赤く輝く赤い人々よ 

燃える火山に立つ巨人のよう 

 

リン国下部のムジャン軍よ 

白い馬に乗る白く輝く白い人々よ 

雪と氷でできた玉のよう 

*セルパ、オムブ、ムジャンはリン国の主体となる三大氏族。

 

 このほか30人の英雄、80人の勇士、ホル軍、北の魔国軍、ジャン国軍、モン国軍の兵士らが集まった。獅子王ケサルはダラ王子を統帥に任命し、三年半の間にタジク国を征服すると宣言した。

 大臣ら家臣はひとことも発しなかった。ダラ王子も心中は不安でならなかった。

 

もし水晶マンダラ(月のこと)がなかったら、星々の輝きはありえるだろうか。もしケサル王なく自分ひとりで遠征するなら、どうやってタジクに勝つというのだろうか。トトン王のように戦略にたけていても勝利が得られないのに、自分のような人間がどうやって大国タジクに勝つことができるだろうか。

 

ダラ王子は勇敢な若者ではあったが、獅子王から離れて戦った経験がなく、自信の持ちようがなかった。

 長老の総監ロンツァ・タゲンは王子の様子を見て心配になり、立ち上がって王子に近づいて言った。

「ダラ王子さま、あなたはムクポ・ドン氏族の後裔です。英雄ギャツァさまの血を引くお方です。獅子王の代理人であり、十万の精鋭軍の長です。しかし不安に思うことはありません。リン軍の兵士は霹靂のごとく勇猛で、勝利を得るのはむつかしいことではありません。それに万が一危機に瀕したときには、獅子王さまがかならずどうにかしてくださいますから」

 ダラ王子は総監の言葉を聞いて少し安心した。軍隊の準備は整っていたので、王子が号令を発すると、すぐに出発した。ケサル王や王妃ドゥクモらは北のタジクとの国境地帯まで行き、王子率いる軍隊を見送った。ドゥクモはダラ王子と別れがたく、視界から消えるまでその姿をじっと眺めていた。

 

白い兜(かぶと)をかぶるその姿は 

東の山から現れた名月のよう 

銀の甲冑をつけたその姿は 

雪山にうずくまる白獅子のよう 

虹の模様の靴をはくその足は 

蒼穹を行く天神のよう 

まさにその雄姿は英雄ギャツァがよみがえったかのよう 

 

 ドゥクモは手を合わせて神に加護を祈った。過酷な状況に置かれないようにと、天の叔母ナムメン・カルモに祈った。敵の強力な武器にやられないようにと、金剛仏の加持を祈った。

 王子ダラはリンの地に別れを告げた。獅子王ケサルと王妃ドゥクモに別れを告げた。

 正月十三日、王子ダラ率いるリン軍は、タジク国領域内のトトンの宿営地に着いた。大規模なリン国の援軍を見たときのトトンの喜びがいかに大きかったか、想像に難くない。彼はすぐにダラ王子と会った。

 ダラ王子はこの老醜をさらけだしたような老人が好きではなかったが、獅子王ケサルの命を受けて援軍としてやってきた以上、恭順を示さなければならなかった。彼は近況についてたずねたあと、連れてきた兵士や将軍のなかから選りすぐった者たちを呼んだ。

 最初に出陣して敵と剣を交えるよう命じられたのは、老将軍テンマだった。敵方のタジクの将軍は、勇将ツェンラ・ドルジェである。

 歴戦を経た老将軍テンマにとっても、ツェンラ・ドルジェとの戦いは容易ではなかった。一戦を交えただけでこの将軍が勇猛で戦略にすぐれていることがわかった。テンマは本気で彼を自分の陣営に引き入れたいと考え、ツェンラ・ドルジェにたいし歌いかけた。

 

ふたりの上等の丈夫(ますらお)があいまみえたとき 

互いに瞬時にすべてを理解しあうものである 

争ったあとに和解すれば 

それは至高の喜びである 

 

ふたりの中等の男子があいまみえたとき 

互いにみな知っているものである 

酒を交わし、茶をすすめれば 

善きこと、美しきことを両者とも享受する 

 

ふたりの下等の男があいまみえたとき 

両者の間に隠し事が存在する 

小さいことで恨みに思い 

ののしりあった文句は谷を埋め尽くすだろう 

 

「リン国とタジク国は本来恨みをもったり、仇を討ったりするような関係ではなかったはずだ。どうしていまのように終わりのない戦争をするようになってしまったのか。われらの王子ダラどのは敵にたいし不寛容である。英雄たちは敵にたいし容赦しない。わたしテンマは敵を恐れることがない。さあ、あなたはどうお考えであるか。まだ戦いたいと思っておいでか」

 ツェンラ・ドルジェはそもそもテンマの話など聞きたくなかった。ダラ王子とその軍隊が来てからというもの、タジク軍には恐怖が広がっていた。ただしおびえたまま城中で坐して死を待つより、城から外に出て戦いたかった。古いことわざにも言う。

 

青竜は岩山を平地に変えるために 

骨を砕き、身をつぶしても後悔しない 

カッコウはその声を谷間に響かせるために 

草原に花がなくなっても後悔しない 

魚は清らかな水の中で泳ぐために 

川の水が凍っても後悔しない 

 

 タジクの富と安寧を守るためなら、血を流し、首を取られたとしても後悔しない、とツェンラ・ドルジェ将軍は考えていた。彼はトトンの人をだます数々の手口を思い起こし、怒りがこみあげてきた。和解の余地などどこにあるだろうか。

 彼は突然テンマにたいし弓を引いた。矢はテンマの胸に当たったが、「戦神長寿」と呼ばれる特殊な甲冑を身に着けていたので無傷だった。彼はその矢を拾ってツェンラ・ドルジェに放った。それもまたツェンラ・ドルジェを傷つけることはなかった。彼らは馬に乗ったまま、刀と矛をもって戦った。なかなか勝負はつきそうになかった。

 タジクの将軍ムナク・ドダンを迎え撃ったのは、ジャン国王子ユラ・トクギュルだった。ユラ王子は幼いころから勇猛で、戦いに長けていた。戦(いくさ)を好むことは、青竜が小雨を好むがごとし、ハイタカが雀を好むがごとしであった。

 

雪山をゆっくり進むのは 

目がやられてしまうので不利である 

馬に乗って鞭の打ち方が悪いと 

脳みそが破裂することになる 

軍隊に戦略がないと 

得るべき利益をすべて失う 

 

 ユラ王子は馬に乗ると、自在に動くことができた。あたかも子供が遊んでいるかのようだった。彼はムナク・ドダンを見ると先に歌い、このタジクの将軍と干戈をまじえたいと思った。

「今日われわれふたりは、どちらの長矛がすぐれているか試そうではないか。どちらが毒蛇のように鋭利であるかを競おうではないか。馬もどちらが速いか競争しようではないか。先に叫んで、鞭を打つのはどちらか」

 ムナク・ドダンはユラ王子の話が終わるまでには長矛で切りかかっていた。ユラ王子は備えをしていたので、長矛をかわし、剣でもって長矛の先をふたつに折った。それはいっそうムナク・ドダンの怒りに油を注ぐことになった。ユラ王子にかなわないと知ると、将軍は馬に乗ってリンの本陣のほうへ走っていった。ユラ王子は愛馬の天青馬に追いかけさせた。

 北の魔軍と黄ホル軍が合同軍を作って、タジク国のメタツェル将軍が宿営している村を攻めた。シェンパ・メルツェはメタツェルの武器が卓越していることを聞き知っていた。とくに「飲血虎」と呼ばれる弓矢の威力がすさまじかった。

 メタツェルの勇猛さは群を抜いていたが、ホルのシェンパ・メルツェにはかなわなかった。メルツェはじわりと迫っていき、メタツェルに弓を引く機会を与えなかった。そうして十回以上攻撃を仕掛けてメタツェルを追い込んでいくと、長矛を脇腹に刺した。メタツェルは即座に馬から転げ落ちた。「飲血虎」はメルツェの戦利品となった。

 勇士セング・アントンはメタツェルが落馬して死んだのを見ると、駿馬「火紅大鵬」に乗って陣中から出てきた。それを迎えうとうとシェンパ・メルツェが飛び出そうとしたが、北の魔国のアタラモが押しとどめた。彼女自身が自分の力を試したいと思ったのである。

 アタラモはケサル王を助けて自分の兄である魔王ルツェンを倒したあと、ケサル王の王妃となり、出征の際には参加することも多かった。今回の戦いにケサル王は出征することができなかったので、彼女は自ら申し出て、北の魔国軍を率いて参戦したのである。 

 勇士セング・アントンは凶悪な顔をしていて、殺気がみなぎっていた。アタラモは機先を制して宣言した。

「丈夫(ますらお)なら勇気を出し惜しみなさいますな。好射手なら矢の速度を惜しみなさいますな。速く走る者なら足の力を惜しみなさいますな。丈夫よ、わたしが矢を放つ前に逃げてください。もし矢が飛んで来たらもはや逃げることはできないでしょうから」

 セング・アントンはひとりの女に闘牛のように勇ましい言葉を吐かれてしまい、ついていない気がした。女と戦うのもどうかと思うが、逃げるのもまた考えものである。戦わず逃げたらいい笑いものだ。彼女と真剣に戦って勝ったところでだれも自分のことを勇士とは呼ばないだろう。そもそも逃げるという選択肢はなさそうだ。*近年の例でいえば(2015年)、クルド人の美しく屈強な女性部隊にたいし、同様の理由でIS軍が戦いづらい状況に陥っているというレポートを目にしたことがある。

 アタラモは彼が忠告に耳を傾けないことに腹を立て、気が進まなかったが矢を放った。それは遠く離れていたセング・アントンの胸の真ん中に突き刺さった。彼は馬から落ちた。タジク軍の兵士はだれもアタラモに戦いを挑もうとしなかった。

 アタラモは追いかけてタジク兵たちを殺そうと考えたが、メルツェに押しとどめられた。

 

高く飛ぶ者が自己を抑えなければ 

ガルダの羽根のごとく風に吹き飛ばされるでしょう 

駿馬が自己を抑えなければ 

前足の蹄を滑らせてしまうでしょう 

今日われらは勝利を得ましたが 

深追いしたところで何がえられましょうか 

 

 大きな損失を出したタジクの国王は家臣を全員集めたが、だれからも対抗策は出てこなかった。半時の沈黙ののち、将軍ツェンラ・ドルジェが前に進み出て、国王に向かって計略を奏上した。国王や大臣たちはその案を受け入れた。国王は家臣たちにそれをすぐに実行するよう命令を下した。

 二日後、タジク陣営に突然大きな旗が広げられたが、それは無数の人の頭が集まって揺れ動いているのだった。そのなかにいたタジクの王子ツァグ・ダワは赤い房がついた兜(かぶと)をかぶり、甲冑をまとい、「肉食らい」の剣を持ち、青い鉄弓と銅の羽根の鉄矢が入った矢筒を肩に担ぎ、黄色い口の戦馬に乗り、赤房軍を率いてリン軍の北陣営に向かった。ドンギョン・ダラチガとアンツァ・ダミ率いる軍はジャン国の陣営を急襲した。ツェンラ・ドルジェ率いる中軍はリン軍の本営を攻撃した。タジク軍の兵士は野や山に満ちるほど多く、リン軍との決死の戦いに臨もうとしていた。

 リン軍は初戦で勝利を収めた後、いささか気が緩んでしまった。タジク軍を低く見る風潮すらあった。二日ほど休んで出兵し、タジク国の本営を攻めれば完勝をおさめることができると考えていた。ところがタジク軍はリン軍が攻めてくるのを待っていなかった。天地がひっくり返るほどの勢いで、人を殺しながらリン軍に攻めてきたのである。リン軍はあわてて応戦したが、そのときには、タジク軍は幕舎の前に達していた。英雄たちはツェンラ・ドルジェのまわりに集まり、リン国の王子ダラに出てくるよう要求した。

 

太陽が行くところ 

星々が邪魔しようとしても 

光や熱を防げられない 

雷鳴が鳴り響くところ 

厚い雲が邪魔しようとしても 

稲妻を防げられない 

大河が流れるところ 

砂礫が邪魔しようとしても 

奔流を防げられない 

 

「われらタジクの大軍を、リン軍が敵対しようとしても、その勢いを食い止めることはできないのだ。統帥ダラ王子よ、よく聞け。幕舎から出てきて、われと一戦を交えよ」

 ダラ王子は幕舎から出て応じようとしたが、まわりの将軍たちに押しとどめられた。テンマは昨夜見た不吉な夢を思い起こしていた。夢の中では、リン軍がタジク軍に包囲されるのである。悲惨な結果にならないためには、用心に用心を重ねるべきである。彼は馬に乗って幕舎から出て、ツェンラ・ドルジェの前に至った。そこへタジクのツァグ王子が飛び出て、ツェンラ・ドルジェとテンマの会話を許さず、「肉食らい」の剣を取り出してテンマに突き付けた。

「悪しきオオカミは羊の心臓を食べます。猛虎は馬の心臓を食べます。われ、ツァグ王子はリン軍の心臓をかき乱すだけです。ただテンマを殺し、その心臓を殺すだけです」

 テンマはこの青二才に言われて烈火のごとく怒った。

「清水の流れる川を回遊すれば、金目魚はカワウソのエサ。棘の木にとまっていれば、スズメは青のハイタカの餌食。子ギツネのツァグ王子よ、おまえはわたし、テンマにとってオモチャにすぎない。わたしは山をも動かす強烈な、稲妻のごとき弓矢を持っておる。遠くの高山に矢を射れば、岩の崖をも粉砕してしまうだろう。今日はその力を思い知らせて存ぜよう!」

 テンマはそういうと、弓を引いた。それは山をも崩すと思われる轟音をたてて飛び、タジク王子の胸に当たった。それは護身符を破って心臓に突き刺さった。

 ツェンラ・ドルジェはタジク王子が悲惨な死を遂げたのを見て、目を真っ赤にしながらも涙を流さず、逆に立ち向かっていった。相手を殺さなければ、自分が殺される、そういった戦いが始まろうとしていた。テンマはまた弓を引いた。しかし矢がツェンラをとらえることはなかった。

ツェンラはダラ王子が出てこないのを見て、またテンマの矢が自分を傷つけられないのを確認して、勇気を得て従者らとともにリン軍の陣営に突っ込んでいった。テンマひとりではタジク軍に抗しきれず、家臣たちが力を合わせて挑んでいった。こうして両軍が入り乱れて戦うことになった。

 この戦いは、タジク軍の圧倒的勝利に終わった。ケサルの甥である英雄パセンや将軍ドセはこのとき戦死した。死亡した兵士の数はかぞえきれないほどだった。トトンはすっかり落ち込んでしまった。ダラ王子もふがいない思いでいっぱいだった。もう挽回の方法はないのではないかと思われるほどの完敗だった。

 


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