2 歴史シミュレーション・ゲームとしてのケサル王物語  チベット帝国の記憶 

 ケサル王は覇権主義的か、と問われれば、「しかり」と答えるしかない。ケサル王はリン国の四方の国(北の魔の国、ホル国、ジャン国、モン国)を征服し、18大ゾン、そしていくつもの小ゾンとの戦いに勝利していく。好戦的、といえばたしかにそうである。外交交渉なんてものはなく、つねに「ケサル=正義」「相手国王=悪魔」という図式があるのみ。

 ケサル王が戦う国はすべて実在するか、実在する国がモデルとなっている。いわば歴史シミュレーション・ゲームなのだ。コーエーの「三国志」シリーズ(現在第12)を思い浮かべていただきたい。「三国志」では、史実に基づいた(あるいは演義に描かれた)属性を帯びた君主や武将となり、作戦をたて、武器を選び、(ときにはオンラインで)戦い、陣地を奪うことができるのだ。

 たとえば、ジャン国はあきらかにナシ族の国である。その国王サタムは、麗江で崇拝されているサンタン神と同一だろう。リンとジャンは塩湖をめぐって戦争をする。実際、唐代の頃からチベットとナシ族は現在の塩源県の塩湖をめぐって争ってきたのだ。

 そのほか、タジクはペルシア、モンはブータン(?)、シャンシュンはシャンシュン、カチェはカシミール、ジャナは中国、ドゥルクは突厥などが相当する。

 日本人にはなぜかあまり知られていないが、チベットにはチベット帝国と呼べる時期があった。中国人歴史家が吐蕃と呼ぶチベットは(チベット人自身はつねにBodと称する)ソンツェンガムポ王(7c前半)のとき飛躍的に強国となった。チベット王家に嫁入りした唐王室の文成公主の話はよく知られている。ソンツェンガムポ王はネパール、シャンシュン、スムパ、吐谷渾から王妃を迎え入れていたが、唐朝から王妃を迎えるということは、強国に大きく近づいたということだった。*(2013年6月18日現在)ウィキペディアでは吐蕃(Bon chen po)となっているが、これは大変な間違いでBod chen poとすべき。すぐに訂正されるだろうけど。

 ソンツェンガムポ王がケサル王のモデルのひとりであることは疑いがない。少なくとも「リン・中国戦争」のケサル王のモデルはソンツェンガムポなのだ。もっとも、ケサル王物語のこの政治的に微妙な巻は、中国内ではリストにさえ載らなくなってしまった。(*嘉(ジャ)の国として漢訳がありました。訂正します) 

 チベット帝国の最盛期は8世紀からの150年間だった。一般のチベット人にとって、この時期はティソンデツェン王の御世であり、タントラ僧パドマサンバヴァがインドからやってきて魔物を調伏し、学僧シャンタラクシタとともに最初の仏教寺であるサムエ寺を建立した黄金期である。*パドマサンバヴァはウディヤーナ(現スワート渓谷)出身とされる。人権活動家の少女マララはここで銃撃された。

 中国史を学習したことがある者なら、763年の吐蕃軍による長安占領をまっさきに思い浮かべるだろう。しかし安史の乱(755〜)によって国が乱れたときであり、吐蕃軍が長安にとどまったのは短期間だったので、大国の中の少数民族の反乱という印象をわれわれは持たされているかもしれない。しかし、驚くべきことにチベット帝国は唐朝に匹敵するほどの、あるいは凌駕するほどの領土を持っていたのである。当時、雲南から四川南部にかけては南詔という大きな国があり、唐は新疆ウイグル自治区を失えば、思うほどには大きくなかった。唐・チベット・南詔の三大国が長い間鼎立していた。

 チベット人にとっては、長安を維持するより、敦煌をしっかりキープし、要衝であるホータンを軸として、現在の新疆ウイグル自治区から中央アジアにかけての広大な領域を手中に収めることのほうが優先事項だった。大小勃律国(ボロール)、すなわちパキスタン北部バルチスタンとギルギット地区を、唐軍と争いながら支配下に治めなければならなかった。チベット軍は、インドのラフルやクル、チャムバ、またギルギットから現在のアフガニスタン領にまで侵攻したのである。

 つまり、チベットのイケイケの時代だったのである。覇権主義がいいとは思わないが、国が一挙に拡張するとき、国民は恍惚とした気分に浸るのである。モンゴルがあれほどの世界帝国を築いたのは不思議だった。モンゴルの人口は少なく、国の歴史も文化も中国と比べれば見劣りしたからだ。チベットも大半が人口過疎、あるいは無人地帯であり、シャンシュンというやや伝説的な国を除くと、国らしい国であったことはなかった。しかし当時のチベットは、のちのモンゴルのように、強大国になろうとしていた。

 チベット帝国の存在をわれわれが知らないのは、いままでずっと洗脳されてきたからである。トルコだって、何百年もオスマン帝国という世界帝国であったのに、われわれはつい上から目線で見てしまう。ペルシアも二千年にわたって大国でありつづけ、ペルシア文化はイスラム世界であこがれの存在であったのに、われわれはイランを野蛮国扱いする。チベット帝国の扱いはもっとひどく、歴史書から抹殺されてしまった。

 こうした大国の残像が、ケサル王物語に影響を与えているかもしれない。象徴としてのケサル王は実在したのだ。しかし国としての独立を失くしたいま、そのことを強調すると、むなしいだけのことかもしれない。チベット帝国をリン国に仮託して、覇権ゲームを楽しむしかないのだ。 

*17世紀の「偉大なるダライラマ」ダライラマ5世の時代、チベットはグシュ汗らモンゴル勢と組んで元朝の再来(皇帝と国師)をもくろみ、版図を拡大し、チベットの第二黄金期を現出した。しかしケサル王物語成立への影響という意味では第一黄金期にはるかに及ばないので、ここでは省略した。


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