ゲパン神オデッセイ(第1部上)

荒ぶる神を担いで800キロ、ヒマラヤ越え巡礼の旅  宮本神酒男 → MAP

(インド・ヒマチャルプラデシュ州)


左からゲパン、ヒデムバ、タラナーグのご神体。ゲパンはマラナ村で神木とガンダムのごとく合体し、新ご神体となる。

観光地マナーリで巡礼隊に参加した。

マナーリ郊外のヒデムバ女神の木造寺院。

マナーリの市街地を行進。注目を浴びる。

町外れの沿道でも人々が神の行進を待っていた。

沿道の家々も神が来るのを待っていた。我々は賓客としてもてなされ、酒や食べ物を死ぬほど口に入れた。

臨時で設けられた祭壇に供えられた花々。

カクナールのカルティク寺院でプジャを行う。

寺院を再建するたび、25mの柱を立てる。右はナーガ。

この寺院にはさりげなく貴重な古代の石彫りがたくさん

寺院の庭の古代の巨岩。ガネーシャらしきものが彫られているのだが、よく見ないと判別できない。。

デウタ・カルティク・スワミの神面を載せた神輿。

プジャリが神輿の神にプジャを捧げようとしている。

ヒンドゥー教の方式にしたがいプジャをはじめる。

護摩の儀式はヒンドゥー教から仏教にもたらされた。

神輿の下をくぐる習俗はインドにもあった

ラホールから来たプジャリと地元のプジャリが合流し、堂内でカルティクへの賛歌を合唱する。

地元のふたりのグル(シャーマン 左端と中央)が神憑かり、神の言葉を告げる。遠くラホールから来た人々をねぎらう。

ラホールから来たメインのラパ(シャーマン)はほぼ毎日、要所で神憑かり、ゲパン神の言葉を告げる。

第1部 マナーリからクル谷を歩きチャンダルカニ峠越え

「ゲパン神が旅に出るらしい」。
 と聞いたのは、7月上旬、キナウル滞在中のことだった。そのときゲパン神についてはあまり知らなかったが、ラダックへ行く途中のラホール地区のゲパン山の神であり、かなり力をもっているという知識はあった。

 ラホールのシシュ村を中心とする人々がこのゲパン神を担ぎ、ロタン峠(3990m)を越え、クル谷に沿って南下し、チャンダルカニ峠(3700m)を越え、謎めいた村マラナに到達する。そこでご神体となる神木を作り、もと来た道をもどる。合計して3週間以上もかかるという長丁場の巡礼である。

 この旅に参加できれば面白く、特殊な経験にもなるだろう。しかしキナウルをすぐ離れることができなかったので、途中で加わることにしたのだった。そんな器用なことができるだろうかという不安はあった。

 ゲパン神とはそもそも何なのだろうか。

 チベット文化圏では、どこでもわりあい近くの聖山の神をユラ(Yul lha)すなわち国の神または山神として崇める。なじみのあるアムド・レコン(青海省同仁県)では村に隣接する一見ふつうの山であることが多く、霊峰とか聖山といったイメージとはかけ離れていた。

しかしマチェン・ポムラ(rMa-chen sPom-ra)やニェンチェン・タンラ(gNyan-chen Thang-lha)、それにカイラス(Kailas, Ti-se)など一部の山は特別で、地元にとどまらず、その神は広大な範囲にわたって崇拝されている。

 ゲパン神(Gyepang-se)はこれらの山神と同列に数えられるほどの大神ではないだろうが、何千という山神群のなかでもっとも西に位置するという点で注目に値する。そしてなんといっても、ニパンセ(Nyi-pang-sad)と同様ボン教の神なのではないかと目されるのだ。ボン教の神ということは、古代シャンシュン国の神ということだった。

 ゲパン神には「ギャルポ」すなわち国王という形容詞が付き、ギャルポ・ゲパンセなどと呼ばれる。たとえばチベットの第二の都市シガツェの守護神はダカル・ギャルポ(白岩王 Brag-dkar rgyal-po)である。ゲパン神は都市の守護神レベルの力をもつと考えればいいだろう。またギャルポは疫病を起こす魔物を指す場合がある。その性は粗暴で、手を付けられなくなる強さがある。魔物のギャルポと守護神のギャルポは偶然おなじ名で呼ばれているわけではなく、コインの表裏の関係にあるとみるべきだろう。

 さて、神が旅に出るというのはどういうことなのだろうか。

 ゲパン神は通常ラホール地区のシシュ村の寺院内に鎮座している。三年に一度、ゲパン神は出巡し、チャンドラ・バガ谷の女神のもとを訪ねる。このとき七座の神(セ sad)がグムツェリンというところに集合するという。

 しかしおそらくもっと重要で謎めいているのが、不定期に行なわれる、ロタン峠を越え、クル谷を南方へ進み、チャンドラカニ峠も越え、山間にあるマラナへ至るゲパン神の長距離の旅だろう。

 不定期、と言ったが、正確ではない。19世紀までは定期的、おそらく12年に一度挙行されていたのではないかと思われる。しかし1905年のあと、再開されたのは65年も後の1970年だった。なぜこんなに長い間中断していたのか、わからない。その後1984、1994、2005年と散発的に挙行された。これまでのペースを考えると今回わずか3年で2008年に行なわれたのは異例のように見えるが、じつは年頭の1月、村の家の4割が焼失する(4つのうち3つの寺院も焼失)という大惨事があったための特例であった。今回の第一の目的は被災のお見舞いなのかもしれない。

 マラナはジャムル(Jamlu)というやはり強大な力をもった神を擁する。あとで詳しく述べたいが、マラナは世界最古の共和制社会の村として知られる。一言で言えば、代議員制のようなシステムを古代からもっていたのである。民主主義に近いように見えるが、絶対的権力をもっていたのはジャムル神だった。いっしょに巡礼に参加した地元の学者トブデン氏の考えでは「ジャムルは古代に実在した絶対的な王にちがいない」ということになる。マラナの周辺には10余りのジャムル神を奉じる村があるが、これらはジャムル王国の一部だったというわけだ。

 ジャムル神が微細にわたるルールを押し付けるのにたいし、ゲパン神はおおらかな面ももつ、豪快で荒々しい、よりチベット的な神である。もともとラダックにいたが、南下してラホールに入り、ラークシャサを降伏した。ラークシャサは破壊者、危害を加える者といった意味合いだが、この場合先住民か、その奉じる神々を言ったのだろう。ゲパン神はさまざまな穀類を口の中にぎっしり詰め込んでいた。しかしラークシャサのひとりがゲパン神の頬にパンチを食らわし、ほとんどの穀類の種がこぼれ、わずかに白と黒、すなわち白色のチンコー麦(大麦)、黒色のソバの種だけが残った。妙に臨場感のある神話である。

 神話ではジャムルが長男である。ゲパンが次男だが、そのあいだにダンジェルというもうひとりの神が次男として数えられ、ゲパンが三男ということもある。

 遠いだけでなく、マラナ村の人々はアーリア系、ラホールの人々はチベット系と、見かけもまったく異なる。それなのに神が兄弟とはどういうことなのだろうか。じつは意外なことに言語に関していえば親戚関係にあるのだ。ラホール語がチベット語やシャンシュン語に近いのは理解できるが、マラナ村の言語にチベット語の成分が入っているのはなぜだろうか。

「唯一考えられるのは」とラホール生まれの学者ツェリン・ドルジェ氏は自信たっぷりに言った。「マラナの人々はシャンシュン国から来たのだ。実際彼らはカイラス山から来たという伝承をもっている」。

 これについてはまたあとで検証することにしたい。

 7月21日、私はランプールという町でクル行きのバスに乗った。ガイドブックに載っていない山中を通る渋い長距離バス・ルートだが、案の定中間地点で倒木が道をふさいでいたため、数百メートル歩いて向こうから来たバスに乗り換えなければならなかった。その日クルのツェリン・ドルジェ氏宅に泊まった。

 翌22日朝、ツェリン・ドルジェ氏とともにバスに乗り、何度も行ったことがあるマナーリへ向かった。インドも携帯の時代。巡礼団が午前中にマナーリに着くという情報を参加者から直接携帯によって得ていたのだ。期待と不安が交錯するなか、レストランで南インド風の朝食を食べながらタイミングをはかっていた。

 正直、自分が何に参加しようとしているのか、十分に把握していなかった。中国なら何十回も祭りや儀礼を見てきたのでだいたいの雰囲気を推し量ることができたが、インドはまだまだなじみが薄かった。この時点では参加者がだれなのか、運んでいる神様がいったいどういう形状をしているのかさえ呑み込んでいなかった。あまりに基本的なことゆえ、ツェリン・ドルジェ氏に聞くことができなかった。

 巡礼団が着いた、という知らせがあり、我々はタクシーを拾って現場へ向かった。タクシーは森閑とした森の中の道を上り、来たことのある博物館の近くで止まった。広場には人だかりができていた。観光客らしき数人の白人がデジカメでその場を撮影していた。中央にはふたりのシャーマンのような人物がいた。彼らはラホールではチベットと同様ラパと呼ばれ、クル谷ではグル(Gur)と呼ばれていたが、ほとんど同一といってよかった。

 花を挿した民族帽を被り、人だかりの最前列に立っていたのは、ラパかプジャリだった。ラパはトランス状態で託宣を述べるのが活動の中心だが、プジャリ、すなわちバラモンは儀礼を行なうのを旨としていた。余談になるが、ラホールのような山奥でさえ、村にはかならずプジャリがいる。このような「村のプジャリ」が村の生活に欠かせないものであったからこそ、仏教とちがい、何千年も生き延びることができたのだといえる。

 彼らが持っていたのが傘の形をしたゲパン神などのご神体だった。この時点ではまだそれがご神体だとは認識していなかったが。

 激しく太鼓を打ち鳴らしていたのはガラ(Gara)と呼ばれる音楽や鍛冶に携わるカーストの人々だった。ラダックでもそうだった(そこではモンと呼ばれる)が、私はこのカーストの人々が好きで、いつも仲良くなった。しかしあまり仲良くしていると、だれかがあとでそっと近づいてきて「彼らとつきあってはだめだ」などと耳打ちすることもあった。彼らは不可触賎民であり、寺院に入ることさえ許されなかった。

 輪の中心にいたラパたちは上半身裸になり、ときおりトランス状態に入って何かを叫んでいた。この憑依シーンはその後毎日のように見ることになるが、はじめて見た私は驚き、興奮した。

 群集の中から若々しい老人が現れた。ツェリン・ドルジェ氏の友人、学者のトプデン氏である。トプデン氏はラホール出身なので巡礼隊の一員となる資格をもっていたが、従軍記者のようだった。当事者よりも、間近の観察者でありたいと願っているかのようだった。

 群集は移動し、美しい木造建築のヒデムバ寺院の庭になだれこんだ。入り口にご神体を並べると、そのまえでグルが激しく神憑かり、異様な声をあげていた。このグルはふだんからこの寺院にいて、主神の女神(ヒデムバ)が憑依するとのことだった。

 人々は寺院の庭に座り込み、紙皿を受け取り、昼食(ごはん+カレー)をもらって食べ始めた。私もトプデン氏の隣に座り、手でつかんで食べた。数年前、アラハバードのアシュラムに一ヶ月余り滞在したとき、毎日手で食べていたことがあるので、手で食べるのにさほど抵抗はなかった。指先が火傷しそうなほど熱かったが、これはインド式の「食の楽しみ方」ともいえた。舌鼓を打つ、ならぬ指鼓を打つ、である。

 


つづく → 第1章2