ゲパン神オデッセイ(第1部下)
荒ぶる神を担いで800キロ、ヒマラヤ越え巡礼の旅
(インド・ヒマチャルプラデシュ州)
人々はヒデムバ寺院を出たあと、近くのお屋敷の裏庭になだれこむように入っていった。湿った草を踏んで裏口から屋内に入る。大きな広間に入り、二手に分かれ、それぞれ大きなテーブルを囲むように座った。私も自分の場所を確保し、勧められるままバター茶や酒を飲んだ。はじめてだったので戸惑うばかりだったが、このあと毎日数軒の家に寄り、飲んだり食べたりすることになる。沿道の人々はだれもが、ホストとなり、「おとなう神」を歓待し、その福をお裾分けしてもらいたいと考えるのである。
この神様の巡礼のおよそ25日間、入れ替わりは多いが、全行程をずっと歩くのは35人程度だという。マナーリのようなアクセスしやすい場所では飛び込み参加もあり、60人くらいの人が加わる。これらの人数分饗応するだけの財力が必要となるし、家の広さも求められる。
坂道を上ったかと思えば下り、家から家へと歩き、次第に疲労が蓄積する。招かれて家に上がり、酒を飲むのもつらくなってくる。
食べたり飲んだりする前、かならずプジャリがひとりひとりに杜松の葉を手渡した。プジャリがマントラを唱えたあと我々が杜松を返すと、それをまとめて燃やす。シンプルなプジャ(儀礼)だった。
夕方、カクナル寺院に着いたとき、飲み込まれるようにあたりは夕闇に包まれた。ドゥルガー廟の前で突如、旗を持ってずっと歩いていた背の高い若者が神憑かった。ぶるぶる震えながら、絶叫する。おそらくラパ(シャーマン)になろうとしているのだろうが、まだ若すぎて、おのれの変成意識をコントロールすることができないのだろう。
裕福なチベット人の家に泊まる。初日はリンゴ園で成功したチベット系の富裕な人の屋敷に泊まった。汗まみれの身体にはもったいない大きな白いふわふわのベッドがあるゴージャスな部屋で寝た。翌7月22日の朝、どこかから読経のような声が聞こえるので一室を覗いてみると、チベット人のお坊さんが本当に読経をしているのだった。そこは仏間だった。主人はチベット仏教徒であり、檀家なのだった。
カクナル寺院の周辺でプジャリによってヒンドゥー教の儀礼が行なわれた。仏教儀礼は見慣れているが、ヒンドゥー教の儀礼は目新しかったので、ビデオカメラを回しながら食い入るように見た。牛の聖なる糞尿を敷き、花を撒き、米でヤントラを描いた。へぎを重ね、火をつけ、護摩をたくのは日本の密教と似ていて興味深かった。もちろんこちらがオリジナルなのだが。
巡礼団にはたくさんの人が参加していたが、20匹程度の羊や山羊の群れがいっしょに歩いていることに気づく。それらは要所、要所で殺され、生贄とされるのだった。
ジャマル神を奉じるソイル村に着いたのは、やはりとっぷりと日が暮れた夕刻だった。寺院のまわりには何百人もの出迎えの村人が集まり、暗闇のなかで大盛況だった。ガラ(演奏者のカースト)が叩く太鼓のリズムに乗って、我々は森の中の広間を何周もぐるぐると回った。
ようやく広間の隅に落ちつき、グル(シャーマン)が座った。まわりに大量の杜松の枝を置き、燃やすと、あたりは香ばしい白い煙に包まれた。静寂が支配した。
グルはまるでシェークスピア劇の『マクベス』でも演じているかのようだった。芝居がかっているのではなく、なにか本当に神が降りてきて語っているように思えたのだ。私は話している内容を聞き取ることができなかったが、その場の雰囲気に酔いしれていた。
その夜は寺院の神の世話人であるカルダルの古い家に泊めてもらった。前夜のようなゴージャスな部屋ではなかったが、築百年以上の伝統的な木造家屋もなかなか風流なものだった。
7月23日、急勾配の斜面を上がり、ルムス村にたどりつく。ここはかつてチベット人が宮殿を建てたとされる村だ。古くて奥ゆかしい建築物が目に付いたが、ゆっくり鑑賞する時間はなかった。傘のようなゲパンのご神体にお香をかがせたあと、興奮したのか(?)そのあたりを駆け始めた。この村でも何百人もの村人が集まり、まさにお祭り騒ぎとなった。
ルムス村を出ると斜面はさらに急勾配になった。日没前に、最後の人里、プルン村に着いた。着いて早々、リーダー格のラパ、スンダル・シンが神憑かってなにか予言めいたことを話し始めた。このスンダル・シンの神憑かりのスタイルは面白かった。両手を内股のあたりで結び、ぴょんぴょん跳びながら託宣を告げるのだ。私はつい妖怪の唐傘小僧を思い出してしまった。
7月24日、プルン村を出ると人家はなく、深い森の中をひたすら登っていくしかなかった。トレッキングである。泉が無数にあり、水分補給に困らないという点では恵まれたトレッキングといえた。森が切れると、草の斜面に変わった。草の野一面に無数の野いちごが成っていた。蛇いちごよりやや大きい程度の小粒のいちごだが、甘みのあるごくふつうのいちごだった。ひたすら採っては口に入れていくと、しだいに馬の気持ちがわかるようになった。
たった一軒のテント茶屋でチャイを飲み、キットカットを食べ、さらに上がっていくと、ようやく峠にたどりついた。チャンダルカニ峠だ。そこで一時間、休憩をとる。そして霧の中を上がると(そう、峠より高いのだ)長方形の石が乱立した不思議なエリアに到着した。クル谷の神の数ほど石があるという。その数というのは400くらいと考えられているらしい。西チベットで数多くのドリン(巨石遺跡)を見てきた私にとって、それらはまさにドリンだった。自然にできたものと考える人々もいるようだが、あきらかに人の手によって石が切られ、草地に挿されていた。西チベットで、巨石に関してチベット人の記憶にないことからも、五千年以上前の太古の巨石文化とみなすべきだろう。
それらの石が集まって聖なる祭壇のように見える聖所があった。そこでプジャを行い、さらに羊を生贄にする。古代人もおなじようなことをやっていたのだろうか。
ようやく下りとなり、といっても滑って転ぶなど難渋するのだが、美しい花の群落のなかをかきわけ、マラナ村へと進んでいった。マラナ村の噂は聞いていたが、まさか自分がそのような体験をすることになるとは予想しなかった。そのような体験というのは、不可触賎民体験のことである。
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