ゲパン神オデッセイ(第2部)

荒ぶる神を担いで800キロ、ヒマラヤ越え巡礼の旅  宮本神酒男

(インド・ヒマチャルプラデシュ州)


峠から駆け下りてきて、ついにマラナ村に到達。家屋の半数以上が08年1月の大火で焼け落ち、痛々しい。

マイルス・デイヴィスばりの吹奏楽で出迎えるマラナの人々。左はわれらがガラの太鼓叩き。

熱烈に歓迎されるなか巡礼団も隊列を整え、村に入場。

焼け残った寺院をバックに我らがラパが記念写真。私は不可触賎民!なので寺院2階に入ることは許されなかった。

寺院の木彫りを触らないように気をつけながら撮影。このあとこのあたりに近づくことさえできなくなった。

再建中の寺院。木彫り職人は外部から。ここにいたことが見つかり、あやうく5000ルピーの罰金を取られそうになる。

まあたしかにエキゾチックな雰囲気の女の子たち。

森から木を伐り出して、樹皮を削る。神木を五色の布などで装飾し、次第にラート(ご神体)になっていく。

神木を削るあいだ村人たちはお祭り騒ぎ。

ドサクサに紛れて史上はじめて(?)長老代議員全員の写真を撮ることができた。アレクサンダー大王末裔説は本当?

やや若手の代議員二人。ギリシア人説、カシャ人説、シャンシュン人説、さてどれが正しい?

完成したご神体は神の意思で進む方向を決める。

再建中の村の中をご神体が進む。

ご神体は一軒一軒家を訪ね、歓待を受ける。もちろん不可触賎民の私は家の中に入ることはできない。

2年前、300人の警官が村にやってきて一斉検挙し、大麻草を刈ったはずなのに、こんなにも生い茂っている。

低カーストのガラ(演奏者)の人々。自分が不可触賎民になり、彼らの気持ちがすこしわかった。

マラナ村の普通の民家。ミツバチを飼っている。

第2部 世界最古の共和制村マラナでご神体作り/不可触賎民体験/大麻

 山裾を廻ると、マラナ村がその痛々しい姿を現した。2008年1月、深雪に覆われた村は時ならぬ大火に舐め尽され、家屋の7割を失ってしまったのである。ともあれマラナには「ちょっと普通でない」オーラのようなものが出ていて、これから村に入るというだけで胸が高鳴るのをおさえることができなかった。

マラナの売りのひとつは「世界最古の共和制」だった。古くから米国や英国の議院の上院と下院のように、カニシュタン(Kanishthang)とジェシュタン(Jyeshthang)という上下のハウス(議院)があったのだ。上院のジェシュタンは11人のメンバーから成っていた。3人はカルダル(ジャムルなど神様の世話係)、プジャリ、グル(カルミシュタともいう。シャーマン)で、世襲だった。残りの8人は、4つのチュグ(Chugh)という単位から二人ずつ選ばれた代表者だ。下院のカニシュタンのメンバーは各家族の長が選ばれたので、数ではジェシュタンを上回った。

このシステムは原始共和制とでも呼ぶことができるだろう。ここから独裁制が生まれる要素はなく、どちらかといえば長老制に近い。ただ民主主義ではなかったことは、留意されねばならない。

 詳しく述べられないが、裁判制度も確立されていた。罰則も厳しいものだった。それだけに、あとで触れたいが、大麻に汚染され、警察の捜査が入ったのは、納得できないものがある。

 村の入り口で我々巡礼団はとまり、いつでも入場できるよう布陣を整えた。目と鼻の先に受け入れるマラナ村の人々も集まってきた。とくに吹奏楽隊の数がすさまじく多く、その強烈なサウンドが谷間にこだました。この地域の吹奏楽器の鳴らす音はマイルス・デイヴィスのようだった。なかなか渋いのである。打楽器も乱打され、期待感はいやがおうにも盛り上がってきた。しかし不安と恐怖もまたもたげてきたような気がした。そのいやな予感は翌日的中することになる。

 村に入る前、人々から、寺院や家などに触るな、歩けるところは限られているので歩道からはみ出るな、などと細かく注意を受けていた。しかし実際そこまでうるさく言われることはないだろうと高をくくっていた。

 私は巡礼団とマラナ村の隊列のあいだに出て、フラッシュをたいて写真を撮った。そのときちょうど傍らで羊が屠殺されたのに気づき、ひやりとした。屠殺のシーンの撮影は固く禁止されていたからだ。何人かの男が声を荒げているように思われたが、私を非難しているのかどうかわからなかった。しかしともかくも巡礼隊はゆっくりと歩き始め、入場を開始した。大きな二つの枝で簡易に作った門の下をくぐり、再建中の村の中へと入っていった。夕闇のなかを歓声とざわめきが滑るように進んでいった。

 村の中心部に達したとき、すでにあたりは真っ暗だった。村の若者に案内されて急斜面を上がり、村の一番上にあるゲストハウスへ向かった。途中で岩に両手をかけ、飛び上がらなければならなかった。20分以上かかっただろうか。下りるのは7、8分程度だろうが、ゲストハウスにもどるのにこれだけ時間がかかったら、不便このうえない。

 しだいにわかってくるのだが、ゲストハウス3軒は「村の外」にあったのだ。だれもはっきり私に面と向かって言わなかったが、要するに外国人はアウトカーストなのである。よそものでもインド人やネパール人であれば大丈夫。外国人なら欧米人でもアジア人でも不可触賎民扱いとなる。もしそうでなければ民家に泊まっただろうが、ゲストハウスに泊まり、宿代と食事代を払わねばならなかった。

 翌日、翌々日と、ゲストハウスで休んでいると(高台なので眺めはいい)何人もの村の若者が訪ねてきた。最初はうれしかったが、つまるところ「ガンジャはどうだい」と大麻をすすめにくるのだった。最古の共和制、厳格な神ジャムル……これらのイメージから謹厳な人々を想像していただけに、いささかがっかりした。カトマンズのタメルと五十歩百歩じゃねえか、と思った。ゲストハウスの主人から聞いた話では、一年半前、300人の警官が村に入り、一斉に使用者を検挙し、一面に生えている麻を刈り取ったのだという。もっとも、あたりには今もびっしりと麻が生い茂っていて、どう考えても生ぬるい処置としかいいようがないのだが。

 もともとよそ者を排除してきたマラナの人々も、90年代から考え方をあらため、観光客やバックパッカーを受け入れるようになった。しかし西欧人やイスラエル人を受け入れたことにより、劇的な変化が起こった。彼らは「マラナの麻の品質は世界一だ」ということに気づいたのである。「マナーリのより、マラナのほうがいい」と、麻を求めてバックパッカーが集まるマナーリより品質が上と認定したのだ。

 彼らがゲストハウスに泊まったところで地元がそれほど潤うわけではないが、麻は現金に化けた。警察の手入れもめったにないので、長逗留する西欧人やイスラエル人も増えてきたのだ。

 マラナに着いた翌日の早朝、巡礼団の何人かが森へ入り、神木となる木を見つけた。ラパが神憑かって見つけたのだという。残念ながら村の外にいた私はその動きをキャッチすることができなかった。もし知っていたとしても、彼らと行動をともにすることはできなかっただろう。はじめてゲストハウスを出て下の広場に向かって歩いたときも、水場で洗濯をしていた女たちは、けがれた者が来たかのように、幼い子をかかえてわきに引っ込んでしまったのだ。1メートル幅ほどの道しかアウトカーストの私が歩けるところはなかったのである。

 その日はあまりやることはなく、広場で木が削られ、五色の布で装飾されていく様子をぼんやりと眺めるだけだった。広場の横の寺院は巡礼隊が休む場所だったが、私はもちろん中に入れない。遠めから寺院の彫刻を撮影するくらいのことしかできなかった。ときどき神木を撮影していたが、そのうち広場に入ることもだめだということになり、ますますやることがなくなってしまった。

 暇そうな私を見て、トプデン氏がお茶に誘った。歩いて1分ほどの路地にある茶店にトプデン氏が入り、チャイを2杯注文する。店の外で私は待っていたが、だれも外にチャイを持ってきてくれないので、思い切って中に入った。しかしこれがたいへんな騒ぎを起こしてしまった。

 店の中にいた男(たぶんオーナー)が「おまえはここで飲んではいけない! 外へ出ろ! 罰金を払え!」とわめき散らしたのである。

 私はしかたなく店の外に出た。日本や西欧の感覚でいえば信じがたいほど汚い店である。窓には千匹のハエがわんわんと唸っていた。こんな汚い店から追い出されるなんて俺も下の下だなあ、と不可触賎民になったことを実感せざるをえなかった。ガラ(演奏者たち)の人々の気持ちもよくわかったような気がした。

 チャイを飲み終え、コップを持て余していると、なおもオーナーは道の反対側に置け、と私に命じた。そこはゴミ溜めだった。不可触賎民が触れたものは汚れてしまっているのだった。

 しばらくして私はトプデン氏に連れられて再建中の寺院を訪ねた。神聖な建物はおろか普通の家の中に入ることもできなかったが、建設中で屋根もないならば、許されるような気がした。しかし甘かった。遠くからだれかがわめきながら近づいてきた。「外国人が入ってるじゃないか。罰金5千ルピー払え!」と叫んでいるのだった。対応はトプデン氏に任せて、私はそそくさとその場を離れた。

 しかし一度だけ民家に入ることができた。巡礼団のリーダー、ラパのスンダル・シン氏に連れられてだれかの家に客として入り、チャイを飲み、菓子を食べたのである。1時間近くいたが、私は一言もしゃべらなかった。チベット系の多いラホール人に見えたのかもしれない。あるいはわかっていたが、問い詰めることもなく、見逃したのかもしれなかった。

 スンダル・シン氏のおかげで議院の長老メンバーたちを撮影することができた。氏が突然私の手を引いて「議員席(チャウントラ)」に連れて行き、「撮れ」と命じたのだ。おそらく外部の者に撮られたことがないであろう彼らは困惑していたが、なにか文句でも言おうとしたときには、私は写真を撮り終えていた。

 マラナ三日目、7月26日、朝広場へ行き、昼食時にゲストハウスにもどり、午後、そこで飼われているドイツ生まれの賢い犬ビーズをつれてふたたび広場に下りた。ビーズから見て、何百人もの人でごった返すのは不思議な光景だったにちがいない。広場では神木のまわりで合計3人のラパおよびグル(シャーマン)が神憑かった。ラホールから来たラパにはゲパン神がかかり、地元のグルにはジャムル神がかかる。

グルは上半身裸になり、一組の鉄具を投げた。占いだろうか。台湾のポアポエを思い出すが(ナシ族やチベット人もおなじ仕組みの占い法をもつ)鉄具が地面に刺さることもあるので、違うものかもしれない。またグルは70センチほどの刀を振り回し、自分の腹に刺したが、血が流れたようには見えなかった。

 神木はいまや色とりどりの蛇のように見えたが、二本の枝で頭を支えると、脚の生えた蛇のようだった。写真で見ただけだが、サカダワ(チベット暦4月15日)の日にカイラス山麓のタルボチェで作られる神柱とよく似ていた。おなじ文化圏、おそらくシャンシュン文化圏に属するという確信を私は持った。

 神木はすべての家を訪ねた。瓦礫となった家の跡や再建中の建物も訪ねた。しかしアウトカーストの私は室内に入ることができないので、広場で待つしかなかった。一軒一軒まわって祝福するのは、メイン行事のひとつだった。ゲパン神はジャムル神と合体し、力が強く、効験あらたかな神になっていたのだ。


← もどる
つぎへ →