9 CIA秘密戦争の主役はモン族だった
2011年1月初旬、米カリフォルニア州の病院でヴァン・パオ(ワン・パオ)が肺炎のため81歳で亡くなった、という記事が配信された。この小さな目立たない訃報に、世界中の意外なほど多くの人が驚いたかもしれない。第二次世界大戦の頃に始まる活躍した時期を考えれば、存命しているとは思えなかったからだ。ヴァン・パオはラオスが共産主義化した1975年までベトナム戦争、あるいはラオス内戦の主役のひとりであり、米国に亡命してからはモン族難民社会の大統領のような存在だった。
日本軍がインドシナへ侵攻したのは、ヴァン・パオがまだ12歳の1941年のことだった。彼は16歳にして、フランス軍が創設したモン族マキ部隊(Meo Maquis)を率いていた。よほど統率能力に長けた生けるレジェンドだったのかもしれない。マキ部隊の当面の敵はおなじモン族の共産軍だった。その後1954年にフランスはインドシナから撤退するが、彼はロイヤル・ラオ軍に残り、モン族としては唯一、将軍にまでのぼりつめた。そして60年代と70年代、彼はCIAによって訓練された特殊部隊を指揮することになったのである。
竹内正右氏によれば(『モンの悲劇』)CIAの訓練を受けたモンの特殊部隊が創設されたのはケネディ政権になってからのことである。モン族が住むシエンクワーン県は激戦区となるディエンビエンフーの後方に位置し、ホーチミン・ルート上にあり、モン族自体ラオス・ベトナム国境にまたがって分布するので、ベトナム戦争が激化するにしたがいモン族特殊部隊の重要性が増していった。
現在、われわれがシエンクワーン県のジャール平原を観光に訪れると、巨大な石壺群だけでなく、あちらこちらに砲弾のあとのクレーターがあり、不発弾(?)を柱に使った小屋を見て驚くことになる。ここはベトナム戦争の戦場跡か、と思わずツアーガイドに聞いてしまうだろう。
その答えはイエスでありノーである。ラオ人でもベトナム人でもないモン族は特殊任務を負うにはうってつけであり、訓練次第では兵力として十分に役立った。しかしあくまでも第一の任務は、「ドミノ理論」によるラオスの連鎖的な共産主義化を防ぐことだった。パテトラオ(ラオス愛国戦線)は次第にその影響力を強めていたのだ。モン族特殊部隊はパテトラオ、ベトミン(ベトナム独立同盟)、そしてそのなかのモン族共産軍と戦わなければならなかった。
そして結果的に、ベトナム戦争末期の1975年、モン族の大量の戦死者と難民(ボートピープル)が発生することになってしまった。20万人ものモン族が戦死し、米国だけでも10数万人の難民を受け入れることになった。当時、この件があまり報道されなかったのは、それが米国の戦争史上最大の失敗であり、汚点であり、悲劇だからだろう。社会主義国家のラオスはこの年の12月に成立し、翌年7月には統一ベトナムが樹立された。米国の完全敗北だった。
こうして黄帝・蚩尤の戦いにはじまり、ラオス内戦(およびベトナム戦争)の悲劇まで、ミャオ族(モン族)の苦難の歴史を俯瞰すると、どうしてここまで不運が連続するのだろうかと嘆息せずにはいられない。おそらく古代から彼らはすぐれた民族であり、つねに為政者と対立する傾向にあったからではなかろうか。彼らはとりわけ明代、清代にたびたび反乱を起こし、その結果民族移動が起きて、東南アジアにまで拡散した。しかし定住先でもまたたびたび悲運にみまわれることになる。安住の地であるはずの米国にいてさえ多くの人が突然死によって亡くなるというのは、神の恣意ではすまされないだろう。
モン族の苦悩とともに生きてきた「レジェンド」ヴァン・パオ(1929−2011)
ベトナム戦争時のラオス。
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ラオス・シエンクワーン県のジャール平原の不思議な巨石壺群。