心風景 inner landscape 40 宮本神酒男 痛みと血を捧げて
台南の路地裏。多くの人がこの青年に注目していないのは、他にも数人の血まみれの青年がいるから
路地裏で惨殺事件の現場に出くわしたかのようだった。男たちは凶器を振りかざし、それによって叩かれた、あるいはえぐられた皮膚から血が噴出し、ドクドクと流れ落ちた。ただし凶器が痛めつけていたのは彼ら自身の頭であり、背中だった。いわば自害行為である。出血多量すぎないか、と私は心配になり、心臓はバクバクと早鐘を鳴らした。
遠目に見ていた地元の住人たちは行為を止めることができず、ただ唖然として眺めるだけだった。人によっては、生き神に対するように両手を合わせて拝むように祈っていた。そう、これはあくまでも神聖な宗教活動だった。手に持っているのは凶器ではなく神器だった。一種のシャーマンであるタンキーは痛みと血を神(女神である媽祖)に捧げていたのだ。
やめてくれと言いたくなる
90年代後半から2000年代にかけて、私は春になると、雲林県の北港朝天宮(媽祖廟)をはじめとする台湾各地の媽祖信仰のさかんな地域をたびたび訪ね歩いた。2003年には、媽祖信仰発祥の地とされる中国福建省のビ洲島(ビはサンズイに眉)にも行っている。 ⇒ 媽祖物語
この年は、台南の大天后宮(媽祖廟)に集まってくる進香の一団にしばらくついて歩いていた。この時期は、台湾中の社区(村落ほどのコミュニティ)が進香団を結成し、八日間にわたって廟から廟へと練り歩き、参拝する。手元に資料がないのではっきりしないが、高雄市の南方からやってきたグループだったと思う。彼らの核となるタンキーたちが突然過激な自傷行為をはじめたので、私は写真に撮って記録することにした。彼らの頭部を見ると、負傷したかのようにはげている箇所があり、何だろうかと気になっていたのだが、それは毎年神器で痛めていたからだった。ハゲは彼らにとってみっともないものではなく、神に身を捧げた信仰心と勇敢さのしるしだった。
北港朝天宮前の通りで巨大な針(?)を頬に刺すタンキー
タンキーの活動は媽祖信仰にかぎったものではない。しかし媽祖に身を捧げるとき、いっそう過激になるのはまちがいない。ヒンドゥー教の女神カーリーならともかく、媽祖ははたして血を好むだろうか。血の捧げものは特例だとしても、頬に針を刺して痛みを捧げるのは、媽祖信仰では非常にさかんである。女神はほんとうに痛みや血を捧げられて喜んでいるのだろうか。ともかくも、信者の崇拝する気持ちは痛いほどよくわかる。
似たような例として、アメリカ、カナダの平原インディアンがおこなうサンダンスの儀礼がある。この儀礼のさい、胸筋に木製の串を刺したときの感覚をマニー・トゥフェザーが語っている。
「立ち上がると、痛みを感じました。痛みを感じましたが、神(創造主)を近くに感じたのです」「それは爆発的な喜びでした。パワーは最高潮に達し、体にみなぎりました」(エアリエル・グルックリッチ『聖なる痛み』)
このように、激痛を感じるとき、高揚感とある種の神聖さを覚え、神の存在を感じる。それによって肉体が変化し、エクスタシーを得て、至高なるもの、すなわち神と通じるのである。
*補足 苦痛を聖なる修練とする例としては、キリスト教のシリス(棘付きのチェーン。もともとは馬巣織りの粗服のこと)を用いた苦行が思い浮かぶ。映画『ダヴィンチ・コード』のなかでオプス・デイのメンバーらしき男がこの鎖を使っている。実在するオプス・デイからはさまざまな点において厳しく批判されたが、シリスが現在も、贖罪の道具として使われているのはたしかだ。
キリスト教の歴史をひもとくと、1233年頃、托鉢修道士たちによってむち打ち苦行が行われたという記録が残っている。そして1259年のペストの大流行のあとの1260年、ペルージャでむち打ち苦行が見られた。この苦行はイタリア全土にとどまらず、アルザス、バヴァリア、ボヘミア、ポーランドにまで広がったという。その後もむち打ち苦行は途絶えることなく、1334年、ドミニカ修道士ベルガモのヴェントゥリノは1万人もの苦行者を集めている。1347年の黒死病流行、翌年の地震のあと、ふたたびむち打ち苦行が行われた。
イスラム教シーア派のアーシュラーの宗教行事も、外見上はキリスト教のむち打ち苦行とよく似ている。この日は、シーア派がムハンマドの後継者とみなすアリーの長男フサインが殺された日であり、イマーム・フサインを追悼して苦行をおこなう。
⇒ 媽祖物語
⇒ 聖なる痛み(マレーシア) 人はなぜ頬の針を刺すのか
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