心風景44 inner landscapes  宮本神酒男  紋面女への懺悔 

 1996年、はじめて独竜江に行ったときに撮影 

 人生には、ああすればよかった、なぜこんなことをしたのだろう、そう悔やまれることが何度かあるものだ。過ぎてしまったことはどうしようもないが、かといって忘れることもできない。私にとって後悔してもしきれないのは、2011年の夏のことである。
                                  ⇒ 地図(雲南)
                                  ⇒ 地図(独龍江)

 独竜江は15年前とくらべて、すべてが激変していた。中国の変化は都市部にはじまり、地方のすみずみにまでその波はおよんでいた。独竜江にはいる前、前回とおなじく、交通の要所である怒江(サルウィン川)沿いの町、六庫に一泊した。以前は公園の片隅に檻があり、数頭の熊がなかでウロウロしていた。ギョッとしたのは、すべての熊の片手の先がなかったことだった。熊の掌は高値で取り引きされていたのだ。今回はそういったネガティブな印象を与える風景はなく、町中が建設ラッシュのなかにあり、どこもかしこも新築マンションやビルの工事中だった。

 怒江沿いを遡上する途中、風情のある橋はほとんど姿を消していた。ロープ橋がかろうじて何か所かで残っていたくらいのものだ。いずれこれらもなくなるのだろうが、数少ないいわば過去の残存物である。橋というのは不思議なもので、(東京都内の橋でさえ)渡ると空気や町の雰囲気が微妙に変化するような気がしてしまう。ロープ橋ともなると、渡った向こうには桃源郷のようなファンタスティックな世界があるとしか思えないのだ。

 怒江(サルウィン川)の流れる峡谷エリアでさえこのような「奥地」なのに、独竜江(エーヤワディー川上流)の流れる峡谷エリアに行くには、二日か三日歩いて高黎貢山(山脈)を越えねばならず、昔から秘境中の秘境だった。120年以上前に王族率いるフランス探検隊がこの地を訪れている。そのときの記録『イラワジの源流を求めて』(エミール・ルー)には、独竜族がいかに野生的であるかが描かれている。

 「女たちは髪を結うことはなく、ほとんど伸ばしっぱなし、伸びて目を覆うほどである。ル人(Loutse 怒族)よりも豪華な彩石のネックレスや魔除けの装飾品をまとっているにもかかわらず、醜さといったらなかった。口のまわりや鼻のてっぺんには刺青が彫られ、美しいとは到底言えない。しかも汚いことといったら!」 

 よくもまあ、こんなひどい描写をするものだと思う。おそらくプリミティブぶりを強調することによって、この王族率いる探検隊がいかに奥地に来ているかを示したかったのだろう。国の予算から費用を捻出するためには、そうした努力も必要になってくるのだ。とはいえ、この地域が貧困地区であったことはまちがいないだろう。

 前回との大きな違いは、高黎貢山の東側(貢山県)と西側(独竜江地区)を結ぶ幹線道路が開通していたことだった。それにともなって、車道が存在しなかった独竜江地区に車道ができていた。車道ができたことによって村が町になり、商店やレストラン、小さなホテルがオープンし、アパートもいくつか建てられ、バスターミナルができて、四川省あたりの外部者も流入するようになった。

 しかしこの「貢山ー独竜江」幹線道路は、崖っぷちを走る世界有数の恐怖のルートだった。とくに雨季になると、何か所かで路肩が崩れ、大型車がすれちがうときは、冷や汗で掌がびっしょり濡れることになった。独竜江地区内の川沿いの道も同様だった。数えてみると、40か所以上で崖崩れが起きていた。道路を覆う岩や土砂の堆積の上を(下は崖、上は落ちてくる土砂を気にかけながら)何度か乗り越えなければならなかった。

 15年前、道で出会ったとき 

 15年ぶりの独竜江再訪でなによりも確かめたかったのは、私が会った紋面女たち、すなわち顔に刺青を入れた女性たちの安否だった。とくにクレンやドゥナといった紋面のシャーマン(ナムサ)たちともう一度会いたかった。生きているならクレンは64歳、盲目のドゥナは85歳になっているはずだ。

 しかし老齢のドゥナだけでなく、クレンも私が会った直後に亡くなっていた。クレンの家はあまりにも貧しく、ナム(神霊)が住まう色鮮やかで、きらびやかな天界とは対照的に、荒涼としていたのを覚えている。シャーマンとしての能力はきわめて高いのに、富を得るためにその力を発揮することはできなかったのだろうか。またヒーラーとして、自分の病気を治すことはできなかったのだろうか。

 私は今回、竜元村で何人かの紋面女と会った。背丈より高いトウモロコシがぎっしりとならぶ畑を抜け、小道を歩き、こじんまりとしているが、清潔で、感じのいい平屋の一軒家に着いた。ここに紋面の女性が住んでいるという情報を得ていたのだ。

 玄関から呼ぶと、なかから返事がかえってきた。しかし本人はなかなか姿をあらわさなかった。彼女があらわれたとき、なぜ時間がかかったのか、理由がわかった。彼女は立ち上がることができず、上半身で下半身を引きずっていかなければならなかったのだ。そしてまた、彼女が15年前に村の道で会った女性であることがわかった。私は何度も彼女の写真を見返しているので、私にとって15年ぶりではなかった。以前とくらべて顔にしわの数が増えていたが、年齢のわりには若々しかった。しわが増え、体が不自由でも、年を感じさせない元気さがある、そう私は考えたのだが、それがいけなかった。

 85歳とは思えない若さに驚いたのだが…… 

 いちおう言い訳をいわせてもらうと、彼女自身がビデオカメラのパネルを見たがったのである。私は拒絶していたが、彼女の熱意に負けてそれを見せてしまった。つまり動画の映る鏡を見せてしまったのである。彼女が自分の姿にうろたえてしまっているのが、なんとなくわかった。鏡でさえこの家にはなかったかもしれない。それなのに私はHDの高画質の動く鏡を提供したのだ。どんな人だって、年をとって自分の写真をとると、そこに写っているのは自分ではないような気がする。「この写真、写りがわるい」などと決め込んでしまう。他者から見ればふだんの本人が写っているとしても。もし何年かぶりで自分の顔を、しかもしわが一挙に増えた顔を見たとするなら、その衝撃はいかほどだっただろうか。

 そのあとの彼女は意外なほど冷静だった。
 つつましい生活ぶりについて語る彼女は修道女のようでもあった。

 それだけに、彼女の家を出て、萱(かや)のなかの小道を歩いているとき、嗚咽が聞こえてきてもそれが現実とは思えなかった。はじめは子豚が鳴いているのかと思った。しかし嗚咽が慟哭にかわっていったとき、私は取り返しのつかないことをしてしまったことに気がついた。ひとりの女性の人生にたいへんひどいことをしてしまったのである。

 私ははやくこの悲痛な声のとどかないところまで行ってしまいたいと思った。同時に彼女の家にもどってわびたい気でいっぱいになった。でもじっさいは、わびてすむどころか、怒りに火をそそぐことになりかねなかった。くやんでも、くやみきれないことをしてしまったときの解決法は、時間しかない。くやんだり、悲しかったり、くやしかったりしても、案外、時がたつとどうでもよくなったり、冷静に自分を見れるようになったりするものだ。しかしあれから7年の月日が流れたが、いま、この瞬間も、あのときのことがよみがえってきて、くやみきれない。