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 チケット・カウンターにいるドロシーを見て、彼女がどんな人間かをわたしは安易に判断してしまった。しかし彼女の表面上のふるまいの下に何があるか知っているいま、わたしの心は彼女に対するシンパシーでいっぱいになった。

 話をしている間、彼女がずっとわたしの目の中を見ていたせいか、わたしは話に引き入れられた。いま彼女の声のトーンは和らいでいだ。「気にかけてもらえるかしら」と彼女はたずねた。「あなたならそうしていただけそうだけど」

「そうします」とわたしは言った。実際そのつもりだった。「ドロシー、あなたは特別な人です」

「特別? わたしが?」彼女はあざ笑った。「わたしは役立たずのゴミみたいに捨てられたのです。でもそう言っていただけるだけでも、ありがたいわ」彼女はむせび泣き、ほとんど話すことができなくなった。「もうだれもわたしのそばにいません。だれも話しかけてこないんです」

 わたしは絶望のどん底にある目を見つめた。悲痛そのものだった。わたしは彼女に言った。ほかの観点から彼女の危機の取り組みを分かち合えないだろうかとわたしはやさしくたずねたのである。

「どうかそうしてください」彼女はこたえた。

「起こったことに対してあなたができることは何もないかもしれません」わたしは言った。「むつかしいかもしれませんが、それでもあなたには、それに対してどう対処していくかを選ぶ自由があります。どう対処していくかが、あなたの残りの人生と向こう側でのことを決定づけるのです」

「どういうことかしら」

「この世界があなたに対していかに残酷であるか、嘆かずにはいられないでしょう。しかしまたあなたの人生の環境を成長のためのポジティブな機会に変える道を探すこともできるのです。聖書もこう言っています。捜せ、そうすれば見いだすだろう。門を叩け、そうすればあけてもらえるだろう、と。わたしたちはみな憂鬱に生き、死ぬことも、感謝しながら生き、死ぬこともできるのです」

「でも恐いんです」と彼女は言った。「死ぬのが恐いんです」

「理解できます」とわたしは言った。「すこしのあいだどこかに行くというわけではありません。あなたの心のなかを、ほんのすこし旅することができるでしょうか」

 ドロシーは、失うものは何もない、と言った。そこでわたしは彼女に、目を閉じ、深呼吸をするようにと、つまり神経を集中し、痛みと悲しみの息をはきながら、神の恩寵の息を吸うようにと言った。彼女は言われたとおりにし、わたしは彼女のために沈黙の祈りをささげた。

「死を理解するために、わたしたちは生を理解する必要があります。どうか自分自身に、わたしは誰なのか、と聞いてください」

「お話したように、わたしはドロシーです」と彼女は目を開けながらこたえた。「ほかに何を言わせたいのか、わたしにはわかりません」

「あなたが赤ん坊だった頃」とわたしはこたえた。「ドロシーと名付けられたとき、その前とあなたは違った人間になりましたか。そのときあなたはずっと母親のお乳がほしかったはずです。そのとき以来、あなたは数えきれないほどの面で成長してきました。自然と、あなたの欲するものも変わってきました。ではあなたは異なる人間になったのでしょうか。人生を通してさまざまな面であなたは変わってきました。夫になる人と結婚したときに名前を変えたかもしれません。人は国籍や宗教を変えることもできます。最近は性別を変えることすらできます。子ども時代からおとなになるまであなたを見てきた<あなた>とは誰なのでしょうか」

 彼女はゆっくりとうなずいた。わたしの言葉を理解したようだった。しかし彼女の目の中にわたしは知らないもの、死への恐怖を見てとることができた。

「死を恐れるのは当然のことです」とわたしはつづけた。「しかしそれに打ち勝つことができれば、生きている体と死んだ体との違いが認識できるようになります。その違いとは、意識なのです」

 さまざまな宗教の聖者によれば、意識とは心自体、あるいは魂の存在の現れであるとわたしは説明した。肉体ばかりに注目するので、死ぬと、意識が活動をやめ、わたしたちは存在することをやめると思い込んでしまっている。しかしこう考えることによって、実際のアイデンティティや世界との関係がわからなくなっているのだ。

 ドロシーとわたしは数分間この考え方について論議した。そしてわたしはいくつかの質問を彼女に投げかけた。あなたはあなたの目ですか? あなたはあなたの目を通して見ているのですか? あなたはあなたの耳ですか? あなたはあなたの耳を通して聞いているのですか? あなたはあなたの鼻ですか? あなたはあなたの鼻を通して匂いをかいでいるのですか? あなたはあなたの肌を通して触れているのではないですか? あなたはあなたの脳を通して考えているのではないですか。あなたの心を通して感じるのではないですか? あなたが感じることは究極的に生者と死者の違いではないでしょうか」

 彼女は一瞬、間を置いてから口を開いた。「それについて考えるとき、わたしはわたしの体の中で生きているように思えます。しかしわたしの体はわたしではない」

 わたしはうなずき、体は車のようなもので、自己は運転手のようなものだと説明した。わたしたちはできうるかぎり体という乗り物を大切にしなければならない。しかし運転手の必要とするものを無視すべきではない。車はオイルとガソリンが必要だが、運転手が必要とするのはほかのものだ。わたしたちは懸命に必要とするものを満たそうとする。体と心の欲求を満たそうとする。しかし魂が必要とするものについては忘れがちである。それはつまり人生の最大の機会とわたしたちがそれぞれ探している真の喜びを逃していることを意味している。

「喜びとはどういう意味ですか」ドロシーはたずねた。

 わたしは生きているもののほとんどすべてが生まれながらに喜びを求めているのだと説明した。調理台の上を這っている蟻も、国際企業のCEOも変わりはない。わたしたちがこの世界に居住し、世界を作っていく原動力になっているのは喜びの探求。わたしたちは欲望を満たすために悪戦苦闘し、わたしたちの計画を邪魔するいかなるものとも戦う。

 人は人生を費やして興味深いものをつぎからつぎへと追いかける。しかしそれで満足することはけっしてない。富、権力、名声、セックスの楽しみははかないものであり、心と感覚を超えて伸びていくものではない。それらが心に触れることはない。真の幸せは心の体験である――愛すること、そして愛されること――そしてその源は、至高の存在への内在する愛であり、わたしたちへの彼の愛に気づくことである。

 


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