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わたしはドロシーに、かつてコルカタでマザー・テレサが話してくれた言葉を伝えた。「この世界でもっとも大きな問題は飢餓です――おなかがすくということではなく、心の飢餓です。世界中で裕福な人も、貧しい人も苦しんでいます。彼らは孤独です。そして愛に飢えているのです」。やさしくほほえみながらマザー・テレサは結論づけた。「神の愛だけが心の飢餓を満たすことができるのです」
「でもあなたはヒンドゥー教徒で、わたしはキリスト教徒です」ドロシーは言った。「どちらの神についてあなたはおっしゃっているのかしら」
「神はたったひとりしかいません」わたしはこたえた。「すべての存在するものの源、すべての愛するもの、すべての美しき父、母。そしてすべての存在するもののもっとも近い友人。神はたくさんの言語のなかに、多くの名を持っているのです」
わたしは窓の外を見て、夏の輝く太陽を指さした。「アメリカでは太陽をサン(sun)と呼び、メキシコではソル(sol)、インドではスーリヤ(surya)と呼びます。アメリカで太陽が昇るとき、それはアメリカの太陽なのでしょうか。メキシコではメキシコの太陽、インドではインドの太陽なのでしょうか。もし太陽が普遍的なものであることを理解しないなら、太陽の名前とそれの由来についての果てしのない論議をすることになってしまいます」
それからわたしはもっとも人から愛され、尊敬されてきたインドの聖典バガヴァッド・ギーターの卓越したメッセージをドロシーと分かち合った。至高の存在は、自分たちの本性の認識をどうやったら取り戻せるかを教えるため、この地上の異なる場所に何度も現れた。道は性質の変化とともにはじまる。傲慢から謙虚へ、貪欲から博愛へ、嫉妬から感謝へ、復讐から許しへ、自分勝手から無私の奉仕へ、自己満足から慈愛へ、疑いから信心へ、情欲から愛への変化からはじまるのである。真の宗教は神の愛を体験する手助けをする。わたしたちの人生のすべての面においてそれは神の愛の仲立ちとなるのである。
「教会では」と彼女は言う。「よい人は天国へ行き、悪い人は地獄へ行くと教えられます。死後何が起きると思いますか」
「じっさいのところ」とわたしは言った。「わたしたちの心は天国を作ることも、地獄を作ることもできます。いま作り出すこともできます」。それからわたしはふたたびバガヴァッド・ギーターを引用した。それは体が一時的なものであるのに対し、自己は永遠であると説いている。自己にとって、生まれもなければ、死もまたない。死後、前世において自己がどんな意識状態を得たにしても、自己はカルマとともに前の生からもうひとつの体へと移行する。これが魂の転生であり、一般によく言われる輪廻転生である。
聖書とギーターのどちらも言っていることがある。それはこの人生においても、死後においても、自分の行為の説明責任があることを知りつつ、精神的な成長をはかるべきであり、また道徳的見地からも責任を負うべきである。個人的な、社会的な、あきらかに哲学的な差異があるにもかかわらず、分かち合う価値観で互いを評価し、兄弟として、姉妹として尊敬することを学ぶとき、思いやりは恩恵をもたらすだろう。
「あなたが違いをどう調和させるかについて話されるとき」と彼女は言った。「カルマとおっしゃいましたね。だれかが言ったことを思い出しました。わたしが苦しんでいるのは、悪いカルマを持っているからと言うんです。でもカルマって何でしょうか」
カルマというのは、わたしたちがおこなう行為やそれによって起こる反応を照会しているのだとわたしは説明した。カルマは重力の法則のように、自然の法則である。われわれが重力を信じようと信じまいと、重力が物体を地球に引っ張るように、カルマの法則は働くのだ。上昇するものは下降するのが自然である。「種を蒔いたなら、自分で刈り取らねばならない」と聖書が言うとき、それはおなじことを教えているのだ。ニュートンの第三力学の法に言う、「すべての動きに対し、同等に、反対方向に働く」と。もし他者に痛みを起こさせたら、わたしはある程度おなじだけの痛みを感じるだろう。もし思いやりを込めて他者を遇するなら、おなじように遇されることを期待するだろう。すぐにではなかったとしても、そのうちに。
この法則を知るということは、要するに、人間が計り知れない価値ある贈り物を受け取ることを評価するということである。贈り物は、わたしたち自身や他者にとって――そうでなければひどい災難だ――おおいに役立つものを作り出すために、利用するものである。この贈り物とは、すべての創造物のなかでもっともパワフルなもの、つまり、自由意志である。しかし自由意志はありがたいことだが、選択することに責任が生じる。他の形の生命は、種の特殊性に応じて、本能的に活動する傾向があるが、人間は聖者か犯罪者か、あるいはその中間かを選ぶことができる。選択することによって、わたしたちの活動に責任が生じるのである。わたしたちはよいおこない、悪いおこないのどちらに対しても、その反応に面と向かい合わなければならない。
「ちょっと待って」ドロシーがさえぎった。「この哲学は自分たちの苦しみを批判する人々を裁くために使われるのかしら。昔からよく言う自業自得ってやつ。あなたはわたしを批判しているの? この苦しみはみなわたし自身のせい?」
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