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 それはいい質問だった。悲しいことにわたし自身のなかにも、他者のなかにも、何も感じずにカルマという観念を使う傾向があった。わたしは自分が理解していることを説明した。すなわちなぜカルマのようなスピリチュアルな教えについて学ぶかといえば、自分の選択に対し責任を負い、人生の質を改善させるためだった。よい人生設計図を描くだけでは十分ではない。それをどう使うか知らなければならないのだ。すべてのスピリチュアルな真実は、わたしたちを高め、勇気づけ、神へ身を捧げる喜びとすべての生きるものへの思いやりにわたしたちを導くためにあると言ってもいい。適切な理解は心を軟化させる。わたしたちは冷淡ではいられない。よい医者のような愛情深い親戚は、逆境にあるわたしたちを裁いたりしない。むしろ手助けしてくれるのだ。わたしたちはみな親戚同士なのである。

「どんな状況下でもわたしたちは自分自身の能力を見つけることができます」とわたしは言った。「わたしたちは智慧を得ることも、ポジティブな行為のために気力を整えることも、神聖なるものの前に謙虚になることもできます。現在のようなストレスの多い時代において人々はとくに鬱に陥りやすい。鬱状態とうのは進歩を妨げます。しかし適切な手助けがあれば、心を落ち着け、ポジティブな考え方を増大し、より高みの性質に目覚めることができます。魂は神聖なものなのです。あなたは永遠に至高の存在に愛される子供なのです。何ものもそれを変えることはできません」

「でもいい人々が苦しみ、悪い人々がうまくやっているとき、どうしてわたしたちはカルマを信じることができるのでしょうか」と彼女は聞いた。

「何年の前のことですが」とわたしは言った。「ヒマラヤに年老いた世捨て人がいました。この悩ましい現象について、彼と共有する物語があります。この物語を語ろうと思うのですが」

 ふたりが会話をはじめてからはじめて、わたしはドロシーの口元に笑みがこぼれるのを確認した。「ええ、どうぞ」彼女は静かに言った。「話を聞かせてください」

「ずっと昔、ひとりの農民がいました。彼のサイロ(貯蔵庫)は質のいい穀物で半分ほど埋まっていました。ところが彼は質の悪い穀物を加え始めたのです。なぜなら穀物はサイロの上から入れていき、底から抜き取っていくので、最初は質のいい穀物が出てくるからです。農民はこれでお金がもうかってしまいました。しかしながら質のいい穀物はなくなり、そのうち質の悪い穀物を売り始めました。時間がたつにしたがい、人々は彼から穀物を買わなくなりました。彼はもうからなくなってしまったのです。

 もうひとり農民がいました。以前、かれは質の悪い穀物でサイロを満たしていました。そして彼の穀物を買おうという人はほとんどいませんでした。これではやっていけないと思った彼は何トンもの質のいい穀物をサイロの上から入れました。当然のごとく、彼を悩ましていた過去の穀物は減り、質のいいものが増えるにしたがい、明るい未来が見えてきたのです。

 わたしたちは選択をすることによって自分の運命をつくります。でも実際、選択をするのは自由なのですが、それをもとに行動すると、もはやそれの成り行きに縛られて生きていくことになります。これがカルマです。あなたはワシントンDC行きの飛行機に乗ることを選択します。しかし飛行機が飛び立ちますと、もはやほかの行き先を選ぶことはできません。あなたはDCで降りなければなりません。でも、機内で、あるいは到着してからすべきことについて、あなたは新しい選択をすることになります。これらからわかる実践的なレッスンは、どんなチャレンジが待っているにせよ、反応することを選ぶことによって、この人生の運命、あるいはつぎの人生の運命が決まるのです」

「なぜ神はわたしたちに自由意志を与えたのでしょうか」と彼女は聞いた。「こんなにもたくさんの苦悩をもたらすのに」

「自由意志はもっとも完璧な愛をもたらします。もしわたしたちが愛するコンピューターとしてプログラムされていたら、あるいは超越した力によって愛することが強要されていたら、わたしたちの愛は不完全で、真の意味では愛することも愛されることも満たされないでしょう。至高の愛されるものを愛する自由で、そこから逃れることも、どこかほかの場所で幸福を探すこともできるのです。しかしいかなる瞬間もあらゆる不死の魂はその愛に戻ることを選べるのです」


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