つまりわたしとは誰? 

 ほとんどの人は「自分とは誰か」と自らに問うことはないだろう。わたしたちは身体や心のアイデンティティのことに没頭し、自分の真の性質について熟考する時間も必要もないと感じる。人生の奥深い意味を探せという内なる声を聞いて、はじめてこの疑問は当を得るのである。そしてこの短い人生の向こうに何があるか、どうやったら永続する満足を得ることができるかについて、追及する準備が整う。

 偉大なるスピリチュアルな経典、バガヴァッド・ギーターとウパニシャッドは、すべての階層のアイデンティティの徹底的な解析から始まる。これらの経典はサンスクリット語で書かれている。サンスクリット語で自己はアートマ、すなわち常に存在する、不滅の、意識の本質である。その本性は至福の気づきである。アートマは身体を通じて時間と物理的な世界を体験するので、わたしたちが誰であり何であるかを理解することは、わたしたちが誰でなく、何でないかを理解することからはじまるのだ。

 わたしたちは住んでいる体ではない。

 わたしたちは心(マインド)でもない。

 わたしたちは体と心(マインド)のなかで生きている。

 もう一度車としての体と運転手としての自己の比喩に戻ろう。車がどれほど立派なものであろうと、運転手なしでは活動できない。しかし運転手はつねに車がなくても活動することができる。わたしたちが住む物質的な体とアートマンの間には差異がある。

 触れることのできる要素――身体と感覚――がある。わたしたちはそれを認識することができる。それらがわたしたちの自己だと思いながら。またより微妙な要素――心(マインド)、知性、自我――がある。わたしたちはそれを認識することができる。これら当座の要素は計り知れない価値がある。というのもこれらによってわたしたちは周囲の世界と関係を持つことがきるからである。しかし注意深くないと、これら当座の自己は本物のアイデンティティの理解に覆いをかけることになる。

 わたしたちは直接的な体験と、知覚に結びついていることで、体と心(マインド)を認識することができる。じっさい、身体とメンタルを通じてこういった近くに多大な時間を費やすため、まるでこれら身体と一体になっているかのように感じている。

 しかしこれは幻影である。アートマは体と一体ではない。アートマはそれ――経験しているわたし――の中にいる観察者である。体と心(マインド)を作る物質、総体的な、あるいは微細な成分は、アートマンがそれを動かさないかぎり、動く力はない。アートマンが体を去るとき、すなわちわたしたちが死と呼ぶ現象が起きたとき、知覚とほかの生命の兆候はとまる。

 智慧を持って生きるということは、人の身体の、感情の、精神的な機能が育まれ、人の考え、言葉、行為が体の中の自我とうまくいっているということである。自分が肉体と心(マインド)以外の何かであることを忘れたとき、体と心(マインド)のなかにもとからあるあらゆる脆弱性に苦しむことになる。

 人気のある言葉ではないかもしれないけれど、苦悩は普遍的な体験である。わたしたち全員が肉体的に、感情的に苦悩する。しかしより深いところで自己意識を成長させることで、それを苦悩として同定することなく、認識することを学ぶ。こうしてわたしたちはそれを超越することができる。じっさいにそのように超越した人をわたしは知っている。

 わが師、プラブパダが肉体の中からあと数日で抜け出そうというとき、彼の体はやせ細り、ほとんど骨と皮だけになっていた。しかしながら最期の吐息まで彼は他者に自身を与え続け、未来の世代のためにサンスクリット語の智慧の経典を翻訳した。生徒のひとり――科学者だった――が師に近づいてきたとき、生徒はひどい状態にあるときに愛する師に会うのがいやだった。プラブパダは微笑んだ。「あなたは科学者です。あなたのやりかたでは証拠が必要となります。いまわたしは証明しようとしています。わたしの体はなくなりつつあります。しかしわたしはなおもおなじなのです」。生徒は偉大なる師が自身を例として言葉に命を吹き込んでいるのだと思い知った。

 わたしたちはどうやってこのように超越することができるだろうか。まずあなたの認識と考え方を変えることからはじめよう。さて、ここでアルバート・アインシュタインの言葉を引用したい。「いかなる問題も、それを作り出したときとおなじ考え方によって解決することはできない」。自我を覆う何重ものことの中のヒエラルキー構造について教えながら、ギーターはわたしたちの変容を助けてくれる。

 

ぼんやりした反応よりも高みにあるのが知覚。知覚よりも高みにあるのが心(マインド)。心(マインド)より高みにあるのが知性。知性よりも高みにあるのが不滅の自我である。

              バガヴァッド・ギータ 6・6 

 

 この階層は比喩によって説明される。アートマは五頭の馬に牽引される馬車に乗る乗客にたとえられる。馬車は身体であり、五頭の馬は五感である。手綱は心(マインド)であり、御者、すなわち知性が持っている。これらすべてはアートマによって管理されている。理想的には、心(マインド)を統制するために知性を律するのはアートマである。その心(マインド)は順繰りに感覚を統制している。覚醒していないとき、あるいは自己意識がないとき、乗客は制御しているとはいえない。むしろアートマは知性を動かす能力を持っていることを忘れてしまい、知性は一方向に、あるいは落ち着かない心(マインド)によって、また制御できない感覚によって、いともたやすく引っぱられてすまう。

 わたしたちがといに第六感と呼ぶもの、すなわち心(マインド)という手綱を制御するために知性を利用するとき、変化がはじまる。

 

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