神の真理
美しい絵画を見たとき、音楽を聴いたとき、エンジニアの仕事ぶりに驚いたとき、だれがこれを作ったのかとたずねるのは当然である。同様に、この宇宙の驚異、精確さを見たとき――宇宙における惑星、雲に縁どられた巨大な山脈、何千年もの間何千キロも流れている川、蝶の大陸を越える正確な飛翔、各器官のDNAなど――だれがそれをつくったのか、なぜつくったのかたずねたくなるのも当然である。
ほかの有神論の宗教・宗派のように、バクティ・ヨーガも宇宙の背後に聖なる知性が存在するという考え方を受け入れている。牧師がそうであったように、多くの人々はどちらの神がよりいいかという論争に明け暮れているが、個人の信仰の深さは、他の宗教のあきらかに欠けているものによって測ることはできないことを思い出すべきである。重要なことは、神の無条件の愛に向かって成長していくなかで、信仰の特別な表現がわたしたちを鼓舞し、導いてくれるかどうかである。悲しいかな、ほとんどの信仰がもっとも偉大なものとして称揚する至高の存在が、多くのグループのなかで一つのグループにとって二次的な、小さなものと想像される。この神の本性の誤解がわたし自身のものを含むあらゆる精神的な伝統のなかであきらかになる。
わたしはさまざまな宗教の教師たちに出会った。彼らの至高の概念は、ほかの宗教と矛盾することがあった。ときには相反する教義のはざまでわたしは引き裂かれることもあった。これらの結論があきらかに異なるのに、彼らの見解が究極的にはひとつだという一般的な議論は受け入れることができなかった。しかし最終的には、バクティの経典を読み、神を理解することが矛盾を解き、調和させるのだということがわかった。
神はさまざまなふうに受け取られ、理解されるということをバクティの経典は説明する。それらはまた、歴史を通して神がさまざまな名前や形状でこの世界にやってくるが、三つの顕著な特徴を持って自らをあらわすと教える。すなわちあまねく広がる存在として、すべての生きる者の心(ハート)の内なる導き手として、そして最大限の表現をするなら、愛情あふれる、魅力でいっぱいの至高の人物として。この三つの特徴がおなじ絶対的真実の側面であることは、『バーガヴァタ・プラーナ』の重要な詩篇中にも説明されている。この詩篇は、あきらかな矛盾を明確にし、調和させる神のビジョンの代表的なものである。
絶対的真実を知る博識の超越論者は
この不二の本質を
ブラフマン、パラマトマ、バガヴァンと呼ぶ
バーガヴァタ・プラーナ 1.2.11
簡単に言うなら、至高なるものは三つの聖なる側面を持っているということだ。すなわちあまねく広がる一なるもの、心(ハート)の中の限定された守護者、直接愛に報いる者である。
これは、夜、駅に近づく列車にたとえることができる。それは最初、すべての方向に輝きを放つ光として姿を現す。それが徐々に駅の中に入ると、わたしたちは列車がたんなる輝く光ではないことを理解し始める。それは一つのエンジンに引っ張られるいくつかの個別の車両でできているのだ。列車が完全に駅の中に入ったとき、わたしたちはそれに乗り、車掌と会い、車両を間近に見ることになる。