ブラフマン、遍在する光 

わたしは至高の存在、ゴーヴィンダをあがめます。

その輝きは、ウパニシャッドのなかでブラフマンが言及した

未分化なる者の源です。そしてそれは

分けられない、無限の、制限のない真実として現れます。

      シュリー・ブラフマー・サムヒタ 5.40 

 

 ヴェーダ経典は絶対的真実を不二(アドヴァイタ)として描く。内側の、存在するすべての、すべてのエネルギーの源と総計を超えた不変の真実のことである。この全知の、遍在する真実はブラフマンとして言及され、非人格的な、形のない、変化しない存在として描かれる。多くの人はそれを白い光と呼ぶかもしれない。

 ヴェーダ経典中にはウパニシャッドと呼ばれる文学群がある。それらはブラフマンの膨大な哲学的説明である。ムンダカ・ウパニシャッドに言う。

 

精神的な領域で、物質的な外皮を超越しているのはブラフマンの輝きである。それは物質的な汚染を免れている。超越論者はこの輝く光を、すべての光の中の光として理解している。この領域で太陽光も、月光も、火も、照明のための電気も必要もない。物質的世界で現れる照明は至高の照明の反射にすぎない。ブラフマンは前にも後ろにも、北にも南にも東にも西にも、また頭上にも足下にもいる。言葉をかえるなら、至高のブラフマンが物質、精神の両方の空に広がっているということだ。

      ムンダカ・ウパニシャッド 2.2.9-11

 

 ブラフマンをすべてにしみわたっている聖なるエネルギーとして考えよ。それは原子と原子間の空間に存在するのだ。ウパニシャッドによれば、ブラフマンは「同時に昇る何百万の太陽のように輝く」。それを見る者はたったひとつの光を見ているのである。それには不二は含まれない、すなわち「これであってそれではない」ではない。そして物質に見つける不完全なるものに影響されることはない。ブラフマンはすべての空間と時間のなかの永遠に純粋な、精神的な本質である。

 わたしたちが本性としてスピリチュアルであり、楽しみ、痛み、生まれ、死に対して超越的で、ブラフマンとひとつであることを理解することが平安をもたらす。ブラフマン、すなわち瞑想(ディヤーナ)とスピリチュアルな知識(ジュニャーナ・ヨーガの道)を通して得た状態から何の差異もないことを理解することによって、わたしたちがもともと幸せに満ちていて、苦痛にも弱くないということがわかるのである。なぜ苦痛に弱くないかといえば、わたしたちがこの世界の物質から作られているわけではないからである。

 ヨーガのクラスでサンスクリット語のフレーズ、<aham brahmasmi>(わたしはブラフマンである)を聞いたことがあるかもしれない。あるいはモクシャ、ムクティ、ニルヴァーナという言葉を聞いたことがあるかもしれない。それは超越的な会得を描くのに使われる。

 

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