バガヴァン、あるいは自身を表現する至高なる者 

 至高なる者は純粋に、精神的に美しい形を持っていると、ヴェーダは教えてくれる。この形は物質からできているわけではない。ゆえに物質的な創造の一部ではない。ヨーガの言葉で<サット・チット・アーナンダ>、すなわち永遠で最大限の知識と至福である。

 バガヴァンという言葉は「卓越しているものの源」を意味する。そしてヴェーダはこれら卓越しているものとして美、強さ、知識、富、名声、独立性を挙げる。至高の人はこれら卓越したものを無限に所有する。無限の美や無尽蔵の富が見える状態を想像してみてほしい。すべてを知っているということを神が知っていると想像してほしい。「すべて」とはじっさい何を意味するのだろうか。限りのある心(マインド)では、神の人格や質を理解することはできない。

 わたしたちのもっとも需要な、もっとも根本的なことは、愛することであり、愛されることである。バガヴァンは至高なる者の美しい、個性的な、愛情あふれる、愛らしい側面である。バガヴァンは完全に彼自身であるとき神である。そして完全に彼自身を表現しているとき、彼は何をしているのか。彼はわたしたちひとりひとりに親しく、完全に愛を提供する。それでわたしたちは自分がもっとも愛されていると感じるほどだ。

 愛は理解できるものである。というのも互いにそれを分かち合うことができるからだ。他者に対して感じる愛は、至高なる者との個人的関係を理解し始める手助けをしてくれる。というのも、愛する性向は神の愛のなかに起源があり、究極の成就もそこにあるからだ。

 多くのヴェーダ経典を読んで、神がわたしたちとどれだけ愛を分かち合えるかを学ぶことができる。とくに『バーガヴァタ・プラーナ』や『ラーマーヤナ』などには他者との個人的な愛の交換について詳細に書かれている。神を愛する人になるのを助けるために、これらの経典は黙想、彼の美しい形、すばらしい質、この世界と精神世界における活動について書いている。会ったことのない誰かを愛するのは簡単ではない。そこで世界は神にわたしたちに接するようにと働きかけていることを経典の中で明らかにしている。

 神との非人格的なパワーとの合一を求める人々と違い、バクティ・ヨーギたちは永遠に、心(ハート)と魂から、そして他者への愛のなかで愛の光を輝かせるために、熱心に神を愛す。

 バクティはさまざまな合一の哲学を提供してくれる。至高なる者はスピリチュアルな探求者の願望に応じて自分自身を明らかにする。ブラフマン、限りない光、存在するすべてのものの合一として、彼に向かってくる者である。パラマトマ、内なる導き手として彼を探す者である。バガヴァン、至高の愛する者、愛される者との関係を望む者である。バガヴァッド・ギーターにいわく(4.11)「魂がわたしに近づいてくると、わたしはそのお返しをする」。

 

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