バクティの心理学
バクティの伝統の教えによればわたしたちの存在の中核には十分な潜在能力がある――それぞれが神の完璧な部分なのである。この真実を世界観に統合したなら、神の愛の力に降伏したとき、わたしたちの強さと弱さが意味を持たないことがわかるだろう。神の慈しみの力はつねに幻想の力よりも大きいのだ。至高なる者の憐みはわたしたちのエゴ、不安、自己破壊的傾向よりも無限に強い。だから自分の欠点を過度に懲戒するのは、有益でも健康的でもない。むしろ自分の弱点を見るとき、スピリチュアルな気づきの邪魔をする物の見方を除去する間、バクティはわたしたちに、慈しみの根源のほうを見るようにと、そしてポジティブな変化をなすよう勇気づけられるべきだと教えてくれる。
わたしたちが聖なる存在として自分を再定義するように駆り立てられるのは、バクティならではだ。神の憐みの使命に対して、計り知れない貢献をする潜在能力を持っているとして、わたしたちはみな祝福される。世界の残りの人々の目から見て、わたしたちの貢献が大きいか小さいかは、精神的にも、さほど関連性はないだろう。わたしたちは特別な潜在的能力を持っている。思考、言葉、行動と内なる自我とを調和させる偽りのない意図のなかにそれはあるのだ。
自我の聖なる本性に気づくことによって、恐怖や絶望、自己疑惑から生まれる悪習を通過することができる。わたしたちは奇跡的な潜在能力とふたたび結びつくことで、こういった悪癖を乗り越えられるのだ。ことわざに言う。「だれもが天才である。しかしもしあなたが一匹の魚について木に昇れるかどうかについて評価するなら、魚は自分がバカだと信じて一生を過ごすことになるだろう」。わたしたちはみな神に与えられた特別な才能を持ち、他人の幸福を祈り、人を愛し、自身幸せであってもいいのだ。
自己を認識することによって他者に慈しみの気持ちを持つことができる。というのも、彼らがより高い本性を思い出すために戦っている魂であることを理解するようになったためである。この気づきがバクティの心理学の中核である。そのことを受け入れるとき、わたしたちは人生のあらゆる瞬間が完璧であり、神聖であることがわかるようになる。また聖なる力が知覚できないほどわずかだが、気づきを操作し、精神的進歩のためにそれを入り組んだ人生のタペストリーに織り込むことも学ぶ。わたしたちは慎み深く、耐えて、勇気を持って、神を信じることを学ぶ。
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