謙虚な心 

 謙虚な心(ハート)とは、慈しみの流れに対して抵抗しない心のことである。自分自身を開放して聖なる慈しみを受け入れるとき、楽々と謙虚でいられる。これは目の前に広がる海に対して、あるいは巨大な山を前にして、自分がいかに小さいかを感じ入るのとよく似ている。わたしはこのことを、あきらかに希望のない状態にあった親しい友人から学んだ。

 ある晩、手の打ちようがなく、悲しいと感じながらわたしは横になっていたが、眠ることができなかった。その四日前、よき友シュルタ・キルティがロンドンから電話をしてきて、彼の妻アメーカラが五日以内に死にそうだと告げた。彼女はわたしがベッドの横にいられないかとたずねてきた。

 そのときわたしはムンバイにいた。そして飛行機に乗る予定の日、アイスランドの火山エイヤフィヤトラヨークトル(Eyjafjallajökull)山が噴火し、膨大な灰を空中に放出した。このためヨーロッパと北アフリカのすべての空港が閉鎖され、すべての航空便がキャンセルされた。これは自然のパワーと小さい島がいかに世界全体に影響を与えうるかについて、強く思い起こさせた。

 何日か過ぎ、アメーカラに残されたのは一日かそこらになってしまった。その夜、わたしは眠ることができなかった。そのときある友人がわたしのもとを訪ねてきた。思いもよらなかったが、彼はプライベートジェットでいっしょに中央アフリカへ行かないかと誘ってきた。わたしの苦境について彼に話すと、わたしをロンドンに送るためにできるだけのことをやってみようと言ってくれたのである。たいへんな迂回ではあったが、時間内にわたしたちはロンドンに着くことができた。アメーカラおよび彼女の家族と一日いっしょに過ごすことができた。翌日朝早く、彼女は愛する主の腕の中へ旅立っていった。

 アメーカラは五人の子供の母で、他者のために働くのが好きな精力的な人物だった。人生の最後のステージで、彼女は癌を患っていたため、機能の一部が麻痺し、やせ衰えていたが、自分の運命を神の意志として鷹揚に受け入れていた。自分の顔がやせこけて変わり果ててしまったことも理解していると語った。そしてほほえみながら付け加えた。「それでもわたしは無限に価値があるように思えます。どうしてですって? それはクリシュナが愛してくださるからです。だれも愛を奪うことはできません。実際、だれもが限りなく重要なのです。神はわたしたちそれぞれを愛してくださっているのですから」

 これらのシンプルな言葉は経典何巻かのエッセンスのようだった。神はわたしたちそれぞれを愛してくださるのだ。わたしたちが誰であろうとなかろうと、わたしたちが何をしようとしまいと、このひとつの永遠の真実が変わることはない。すなわち至高なる者は無条件で、永遠にわたしたちを愛してくれる。その愛に近づくためには、わたしたちは神の愛に感謝し、神の意志と調和して生きることによって神の愛に報いるだけでいいのだ。アメーカラは威厳を保ってこの真実を生きた。そしてこれらの言葉を通してほかの人に対しどのように生きればいいかを示した。

 人々がつぎのように尋ねたくなるのは道理だろう。「もし神が誰かを愛するなら、なぜその人はひどい病気にかかったり、つらい痛みに悩まされたりするのでしょうか」。この質問に関しては、のちほどこの本のなかで考えを述べるつもりである。しかし本質的に、肉体的な苦痛というものは、身体と心(マインド)の外層に起こりうることである。それは魂(こころ)に触れることはない。身体と心(マインド)は、世界の絶え間なく変わる特質と、それが影響を及ぼす法則に対してはとても弱いのだ。主は、主に頼る帰依者の肉体的挑戦には干渉するかもしれない。しかしながらアメーカラが教えてくれるように、もし痛みや苦闘がつづくとしても、勢いを得て、わたしたちの価値をふたたび見いだし、より高い力に庇護を求め、魂の喜びのあるところ、すなわち真の愛が待つ場所に、ふたたび結びつくことになるのだ。

 

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