内なる旅 

2部 物質世界でスピリチュアルに生きること 

現実と幻影を見分ける 

世界の現われは間違いとしては受け入れられない。それは現実だが、一時的なものとして受け入れられる。この物質的な現れは間隔をおいて起こる。すなわちしばらくとどまり、それから消失する。

    プラブパーダ 『バガヴァッド・ギーター、そのままに』

 

 1966年、プラブパーダの信者何人かで彼を連れだしてニューヨーク・シティ周辺を散歩した。彼らは道を失い、意図せず彼をバワリー街の汚いスラムに導いてしまった。そこではネズミがチョロチョロ走り回り、通りはゴミだらけだった。彼らのひとりは申し訳なく思い、詫びを言うと、プラブパーダはこたえた。「あやまることはない。見えないかい? このかりそめの世界の向こうにスピリチュアルな世界があるのを。しかしあなたの目にはまだそれが見えないようだな」。学生の心に刻まれたプラブパーダの勇気づけの言葉は、永遠の哲学的真実だった。

 スピリチュアルな目で世界を見ることを学ぶのは、ある意味、もっともスピリチュアルな道の教えを受けるということである。ほかのどんなものもそうだが、スピリチュアルなヴィジョンには異なるレベルがある。バクティ・ヨーギたちは神の愛と融合するスピリチュアルなヴィジョンに集中する。この本の後半部でわたしたちはそのようなヴィジョンを生み出すのを助ける特別な実践法を探求するだろう。しかしまず物質世界で内在するスピリチュアルな質について詳しく考察していきたい。

 

夢と現実を区別する 

 一部の哲学の学派は、世界は存在しないと提言する。すなわちそれは幻であり、ある日醒めてしまう夢であると。しかしバクティ派は別の見方をする。つまりそれは魂(こころ)とそのまわりの世界、双方とも現実であり、かつ神聖である。それは至高なる者によって創造されたエネルギーである。世界は一時的なものにすぎないので、わたしたちはその体験を「夢のよう」と呼ぶかもしれない。実際、夢はちょうどわたしたちが、つまり永遠の魂(こころ)が、物質のなかでのみ生きるとき、わたしたちは物質だと考える。わたしたちはまた、この一時的な世界に生きる間、苦悩から自分を開放する機会があることを、またかわりに愛と平和の人生を送れることを理解していない。

 真実の太陽が意識の中を昇るとき、暗闇や恐怖のための場所はない。暗いとき、どこを歩いているかわからない。昼の光のなかでわたしたちは道をはっきり見ることができる。

 なぜこのことが重要なのか。それは「世界は幻覚にすぎない」という哲学を推し進めたなら、地球というわが家に対し、わたしたちが無責任になってしまうからだ。世界がリアルでないなら、なぜ環境に気をつかう必要があるのか。バクティ・ヨーギたちはいつか物質世界を超越したいと望んでいるが、同時に地球の神聖さを感じ、至高なる者が彼らに託したものへの導き手となる感覚も持っている。バクティ・ヨーガは人々に責任ある社会意識を持つよう鼓舞している。

 さてバクティの側から「夢」の哲学をよく見てみよう。あなたが虎に追いかけられて走っている夢を見るとする。あなたは一瞬凍ってしまう。そしてどれだけ足を速く動かそうとしても、それ以上は無理である。まるで泥に捉われているかのようだ。虎が近づいている。夢は本当にリアルに感じられ、ベッドの上で寝返りを打ちながら汗をかき始める。あなたの心臓は高鳴るばかり。

 そして目が覚める。ただの夢にすぎなかった。それはリアルだったのか。

 答えはイエスでありノーだ。それが起こったという意味ではリアルだ。あなたはそれを体験した。しかしなおもそれは幻影だといえる。あなたが夢の中の人物を確認したという事実の中に幻影はある。しかしそれはあなたではない。あなたの心(マインド)が作り出した人物だ。夢の中であなたはいつもあなたが誰であるか忘れ、夢の自我であると認識する。

 バクティ・ヨーギたちは一時的なリアリティーでさえ注目に値すると考える。というのもそれがどこかの永遠のリアリティーを反映しているからだ。一瞬夢の話はおいといて、あなたが存在し、ゆえに虎も存在するのは真実である。夢のように、物質世界はリアルである。しかしわたしたちが本物のスピリチュアルなアイデンティティーを忘れたら、幻影の感覚に陥ってしまうだろう。自己実現には変わり続ける一時的な世界との関係を理解することも含まれている。

 生徒のひとりに航空機のパイロットがいるが、どのようにパイロットが訓練でフライト・シミュレーターを使用するか、彼が説明してくれた。機械がとても洗練されているので、訓練生は本物の航空機の視界、音、物理的な動きにどっぷりと浸ることができる。このバーチャル・リアリティー・マシーンで訓練を受け続けたことにより、生徒はパイロットの資格を得ることができた。これは魂(ひと)が物質生活でどのように生きていくかということと似ている。魂(ひと)は物質とまったく異なるが、この世界のバーチャル・リアリティーにいる間、わたしたちは物質である経験をする。それゆえわたしたちはうまく操縦して幸せになろうとし、痛みを避けようとする。しかしながらこの物質世界で人生のすべての面に啓蒙された原則を適用し、究極の覚醒した状態への準備をする機会を持っている。

 わたしたちが信仰深く生きるとき、この世界は精神世界のバーチャル・リアリティー・バージョンとなる。バクティ・ヨーギにとって世界は聖なるものであり、この世界で至高なる者に仕えることは、覚醒した領域で至高なる者に仕えるのと違いはない。愛がこめられて仕えたことが重要なのであり、どこで仕えたかは重要ではない。成功したパフォーマンスによってわたしたちは覚醒することができるのだ。

 物質世界における魂の苦境を理解するのを助けてくれるのは、ギーターである。

 

不滅のガジュマルの木があるといわれる。 

その根は上方に伸び、枝は下方に伸びるという。 

この木の真の形象はこの世界では感受されない。 

だが決断して人は頑丈な木の根を切らねばならない。 

無執着という武器で。 

最終地を探さねばならない。けっして戻って来られないその場所を。

   バガヴァッド・ギーター 15.13-

 

わたしたちはどこで根が上に向き、枝が下に向いたさかさまの木をみることができるだろうか。木が湖のそばにあるとき、湖面に映った影はさかさまに見える。映った影は木ではない。しかしそれは木なしでは存在できない。ギーターはこの例を使っていかに物質的喜びが精神的満足の影にすぎないかを示す。ギーターはこの世界のすべてが精神的存在におけるオリジナルの、完璧なカウンターパートナーを持っていると語っている。

 ほかの観点からすると、ガジュマルは驚くべき木である。巨大で、根や枝が互いに絡み合い、どこが終わりで、どこが始まりかわからない。物質世界におけるわたしたちの状況も似たようなものである。複雑で、絡み合ったものをほどくのは困難だ。下を見るつもりで上を見たり、上を見るつもりで下を見たりする。この世界の木の上をわたしたちは歩く。はてしなく、つぎつぎと生まれてきては、ある枝からほかの枝へと。

 それでもなお混乱し、こんがらがっているけれども、わたしたちのまわりの世界は理解される法則にしたがって動き続ける。これらの法則を理解することで、その支配下のもと邪魔をされずに生きていけるし、心の明晰さを得ることができる。自己理解へ向かって進歩するためには、明晰な心ですべての状況を見る必要があったのである。

 

⇒ つぎ