この世界の目的は何なのか 

至高なる者に無関心であったため、実在する者は、自分もまた至高の支配者であるという思い違いに捉われるようになった。

    バクティヴィノーダ・タークル 『シュリー・アームナーヤ・スートラ』

 

 アートマ、あるいは魂は、至高なる者の特性をわずかながら分かち合う。この特性のひとつは自立性である。魂は愛を渇望する。究極的にはそれ自体とその根源の誠実な関係を渇望する。しかし愛が完全な供え物であるために、人は「愛さない」自由も持つべきである。神との関係と同様、互いの関係においてもそれは真実である。魂の中には、至高なる者を、無限の愛の宝庫を、至高なる者から自立した人生の実験を避けようとする者もいる。この物質世界はその選択にも適応する。

 そしてまたここでこの世界の「幻」に話を戻そう。この実験を実行するために魂はその真の自我を忘れなければならない。この自我はごく自然に至高なる人格との関係のなかにある。もうひとつのアイデンティティーと仮定しなければならない。

 この夢の中のような状態で、魂は、すべての魂の存在の中核にいる至高の愛される者だけがあることを忘れている。すべての魂は生来、至高なる者のまわりの近くの軌道を、あるいははるか遠くの軌道を回っている。物質世界は見かけ上、わたしたちがもともとの軌道から踏み出すのを、そして中心に居座るのを容認している。わたしたちが愛される至高なる者の場所を奪おうとするとき――それはつまりわたしたちが物質的資源の所有者、享楽者、統御者であろうとするとき――自分たちを同様の存在に見立てている人々と衝突していることだろう。軋轢と不幸がつぎにやってくるのは避けがたい。

 もちろんこの不自然なロールプレイングは維持できるものではない。世界はほかの役目をあてがうだろう。因果の法則(カルマ)を通して、そして時の影響のもと、なぜわたしたちは不幸せなのか、そしてはかない楽しみや物質生活の痛みにたいして平然としていられるのか、自分たち自身に尋ねたくなる。そのような問いに鼓舞されて知識を探す。わたしたちのなかでも根源まで知識を求める人々を「悟りに達した人」と呼ぶ。

 悟りに達した人はほかの人とおなじことをしているように見える。しかし彼らは違ったところに焦点を置いているのだ。いわば軌道に戻り、ごく自然に至高なる者と彼の子供たちへの愛で満たされるのだ。彼らはもはや幻影のなかで活動してはいない。この世界を含むすべての中に生命力を見るのだ。

 

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