喜びのパラドックス 

 充足感を求めるわたしたちは、自分の欲望に応じて世界が回ってほしいと願うものだ。しかし世界はそのようには動かない。これはわたしたちをあるべき状態にそっと戻そうとする自然のやり方と言えるだろう。わたしたちを喜ばすために世界がこちらの言い分を聞くわけではないことを、つぎのシンプルな物語によって示したい。

 ある夏、わたしは数百人の学生や友人をつれてイタリアのベニスを訪れた。その地域は記録的な熱波に襲われ、農村地帯では作物が損害を被った。そして数人の犠牲者も出た。

 ある晩早く、サン・マルコ広場でアウトドアの講義をし、会衆で詠唱したあと、海で体を冷やそうと、フェリーに乗って近くの島に渡った。しかし島に着くころには、すでにみな酷暑にやられてしまっていた。ボートから降り、地獄のような暑さのなかを一時間ほど歩いて、ようやく命を救うオアシスともいうべき場所に到達した。それは広くて長い美しい砂洲だった。心地よいそよ風が吹き、月の光が穏やかな波の上でいざなうように踊っていた。待ちきれずに、みな海に飛び込んだ。たしかに報われた。水はリフレッシュするのにちょうどよくひんやりして、疲労を洗い流すにはうってつけの温度だった。

 突然叫び声が聞こえた。それから、つぎつぎと。数秒以内にほとんどが叫んでいた。「メドゥーサだ! メドゥーサだ!」。わたしはその言葉が何かわからなかった。通訳してくれたのは燃えるような一撃だった。あたりはクラゲがうようよしていたのだ。何人かは水をバシャバシャ叩きながら岸へ向かった。一部はクラゲの一撃をものともしなかった。結果的に冷たい水の中にとどまることができた。

 わたしは水中居残り組ではなかった。価値ある教訓を学んだわたしはビーチの地獄のような暑さのなかに戻った。物質的な喜びはときにはスリルに満ちているかもしれない。それは日常の戦いや心配に対して完璧な安心材料となるものだ。しかしわたしたちはしばしば表面の下に潜むものを見ることができない。物質的な性質の海の中、あきらかな喜びの表面の下に、人を突き刺す触手を持ったクラゲが泳いでいる。

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