内なる旅 

バクティのダルマを実践する 

どこにでもわたしを見る人にとって、そしてわたしのなかにすべてを見る人にとって、わたしは見失われることはない。あるいは彼はわたしから見失われることはない。

    バガヴァッド・ギーター 630 

 

 ダルマ(dharma)という言葉はサンスクリットの語幹ドゥリ(dhri)から来ている。「所持する、維持する、保つ」という意味である。そして拡張してその名詞形において「持ち去られないもの」を意味する。つまり何かの堅固な部分ということである。ダルマを物事の固有の質と考えよう。それは分離できない何かの一部である。たとえば、火の中の熱、砂糖の中の甘みなど。もし知識を根源まで追い、精神的覚醒を追求するなら、意味を理解し、ダルマを実践することははかりしれないほど重要になる。

 バクティ・ヨーガは、すべての生きるものはセーヴァ、すなわち愛情のこもった奉仕であると教える。これはつまり愛情のこもった奉仕は魂の本質的な性質ということである。バクティ・ヨーガを実践するということは、魂のダルマに敬意を表するということであり、物質的な行動を精神的なものに変容することに集中するということである。勉強している、調理している、勘定を払っている、絵を描いているふたりを想像してほしい。ひとりは真の自己と調和するよう行動し、神を喜ばせようとしている。一方もうひとりは自分勝手で、現実的な目的を持っている。外から見ると、結果はおなじように見える。しかしふたつの行動パターンは異なる結果を生み出すのだ。ひとりは、進歩して、解放への道の途中で事物に捉われることから免れるようになる。もうひとりは、一時的な悦楽や苦痛に束縛され、カルマの種を植えることになるのである。

 どのような行動が精神的か、物質的かを決定するのだろうか。背後にあるのが意識か、意図か、だろう。たとえば、ナイフは外科医の手にあるときはよいものとされ、殺人者の手にあるときは悪いものと目される。モルヒネはホスピスの看護人の手にあるときはよいものとされ、ドラッグの密売人の手にあるときは悪いものと目される。物質的な性質においてすべてのものは、いいことにも悪いことにも使える。あるいは、より高い感性において、精神的成長にも、物質的もつれにもなる。そしてわたしたちが人生から何を得たいかを基本として、物事の使い方を選ぶことができるのだ。

 バクティ・ヨーギたちは精神的レンズを通して世界を見て、至高なる者のように物質的な対象を感受し、至高なる者との結びつきによって、物質的なものを利用しようとする。

 かつて学生がわたしの師にたずねた。「物質的なものの中にどうやって神を見ることができるのでしょうか」

 プラブパーダこたえた。「机の上のわたしのメガネを見たとき、あなたは何を見ているのか」

「ええ、まあ」学生は言った。「これはぼくのグルのメガネです。これを見ているといかにぼくがあなたを愛しているかを思い出させてくれます」

 プラブパーダはにっこり笑った。「神への愛を育めば、あなたはだんだんとすべてのものが神のものに見えてくるだろう。そして神のことを思えば思うほど、神への愛を強く感じるだろう」

 奇妙に思われるかもしれないが、この世界からの解放はこの世界をあるがままに見る目を育むことから始まる。この世界に生きている間、神を愛し、神に仕えることを学ぶことによって、わたしたちは幻を超越するのである。神への愛を通して愛の喜びを祝福し、ご自然に慈しみの心をもって苦しんでいる人々のために尽くすことができるのだ。物質的な存在の向こうにわたしたちのもともとの家、精神的な世界がある。その無限の愛の光の中では、苦悩や幻の暗闇は存在することができないのだ。

 

思いやりで、つまりダルマの最高表現で世界を見る 

偉大な人物は一般の人々が苦しむゆえに、つねに不便さを自発的に受け入れる。これはすべての人の心に存在する至高の魂の崇拝のもっとも高次な方法である。

    バガヴァッタ・プラーナ 8.7.44 

 

 わたしたちの精神的進歩は、いかに他者の進歩を助けるかということに直接かかっている。物質との結びつきを断つのが不可能に思える時代、他者を助けようと、多くの聖職者が役割を演じること(サンスクリットでアハンカラ、あるいは間違ったエゴ)から自ら切り離そうと努力してきた。

 パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』はこれをアヒンサ(ahimsa)、すなわち「非暴力」と呼んだ。アヒンサはたんに他者を傷つけないというだけでなく、積極的に行動するということを意味する。すなわち親切であること、他者を愛すること、精神的、物質的に健全であること、思いやりがあること、などである。もし他者に思いやりを示し、慰めの一部でも捧げることができるなら、わたしたちは人生を豊かにすることができる。

 他者への奉仕のもっとも本質的な形は、真の自我を認識する喜びで彼らを目覚めさせることである。わが精神的師は個人的な例を示して、このように人々の心に触れることができた。1965年、69歳でプラブパーダはバクティの教えを西欧にもたらすためにインドを後にした。彼はフリーチケットをもらい、老朽化した運搬船に乗り、カルカッタを出発し、38日後にニューヨークに着いた。アラビア海を航行しているときにひどい船酔いを患い、二度心臓発作に襲われた。船上には医者も医療設備もなかった。米国に着いたとき、旅の間彼を見てくれたことを主に感謝した。そして祈りの言葉を唱えながら書いた。「主よ、あなたの操り人形であるわたしを踊らせたいなら、踊らせてください」

 ニューヨークに着いたとき、彼は無一文で孤独だった。彼はニューヨーク市のバワリーに住んだ。当時そこはアルコール依存症やドラッグ中毒、犯罪だらけの生活に追い込まれたホームレスの人々に占められていた。そこで彼は持ち物を盗られ、追い払われ、肉体的に脅された。なぜ学識のあるインドの聖人が、美しい聖なる場所の住み家を離れてここに来たのだろうか。インドにいてさえ彼はわたしたちの苦しみを感じていたのである。彼はこうした困難に耐え、スピリチュアルな愛の贈り物をわたしたちと分かち合うことができた。バガヴァッド・プラーナやほとんどすべての聖典によれば、このような思いやりの気持ちこそがダルマのもっとも高次の表現なのである。人の能力に応じて、そしてわたしたちのように生を愛する人や生きているすべてのものへの奉仕を超えて、思いやりの気持ちが広がるとき、それはとくに真実なのである。

 

⇒ つぎ