思いやりのある食事 

 生命のあるところ、魂は存在し、魂は至高の魂の一部である。人間以外の種は人間と同じタイプの知性を分かち合えないかもしれない。しかし生きとし生けるものは感じる。それはつまり、生きているという感覚を意味する。彼ら自身のやりかたで、また彼らが住む身体が何であろうと、彼らは人間と同じように楽しみ、苦しむ。彼らは自分たちの生命を、多くの種の場合、とくにわたしたちが食べる動物たちの場合、自分たちの子孫の生命をも思いやる。

 もっとも発展した生命ということは、人間は環境や世界のほかの生きものの管理人であるということだった。この原理を理解し、実行することこそアヒンサだった。それはたんなる非暴力ではなく、共感することであり、慈しむことだった。またそれはパタンジャリの『ヨーガ・スートラ』の基本教義であり、仏教のボーディサットヴァ(菩薩)のダルマ(法)の聖なる教えであり、ユダヤ・キリスト教の信仰の黄金律だった。バクティの教えにおいてもそれは重要なものだった。純粋に思いやりを持つこと、他人の苦しみを自分の苦しみとして感じること、行動、言葉、思考を通して直接、あるいは間接的に、いかなる生きているものに苦痛を与えないように、できうるかぎり、まじめに、生涯を通じて試みること、それがアヒンサだ。

 アヒンサの原理をもとに考えれば、思いやりのある食事が重要性になってくる。食べ物にするために動物を殺すことによって起こされる不要な苦悩は、心が痛むだけでなく、殺しと関連するネガティブなカルマが作り出されている。世界全体の規模で影響は広がり、すべての人にカルマは及んでいるのだ。思いやりの精神でバクティを実践することで、当然食生活はベジタリアンになる。その意識が広がることによって、ほかの命を愛する生きものとの関係に敬意を払うことに敏感になる。より理想が高くなり、いっそう喜んで彼らとともに生きるようになれば、わたしたちの人生はより意味があるものになり、充実したものになるのだ。

 

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