食事のダルマ 

 人はたずねるかもしれない、「植物を食べるとき、彼らも痛みを感じるでしょう。どうやったらノンベジよりも暴力的でなくベジタリアン・フードを食べることができるでしょうか」と。

 アヒンサの精神は、他者への痛みを意識的に最小化することである。動物、鳥、魚はその生命のために戦うだろう。そしてそれらはわたしたちと同じような神経中枢システムを持っているので、恐怖や痛みを感じるだろう。食物連鎖の下位レベルの種、たとえば植物の心理学的、生理学的構造はそんな感じなので、それらは極端に未発達な感覚や神経組織を持ち、それゆえ最小の痛みの感覚を持っている。アヒンサは現実主義的なので、これら生きるものの痛みをさえ避けようとする。しかし自然の法則によって、わたしたちは生き残るために食べなければならない。わたしたちの食事はできるかぎり思いやりがなくてはならない。

 わたしたちは本能的に、植物を収穫することと動物を殺すことの違いを知っている。麦畑や菜園のナチュラルな、元気が出る場面と、恐怖の叫び、ゾッとさせる臭い、処理場の血だまりを比較してみるといい。それでもなお、植物を殺すのもまた暴力行為であるのはたしかであったが。

 わたしたちに何ができるだろうか。100パーセントの非暴力なんていうものはこの世界ではありえない。ヴェーダ諸経典は言う。わたしたちが献身的に、至高なる者に穀物や野菜、フルーツなど食物連鎖の下層の食べ物を捧げるとき、これら植物の魂は、精神の進化を遂げていく。というのも、捧げものの献身的な意図と、それら(植物の魂)を受け入れる至高なる者の祝福で満たされるからである。ベジタリアンの食べ物は善良そのものである。それが愛をこめて供されるとき、すべてのカルマから解放されることになる。それらによってわたしたちは肉体的にも、精神的にも育まれることになる。

 子供たちのほとんどは自然と動物を愛するようになる。おそらく子供たちは複雑なおとなよりも動物のほうが接しやすいのだろう。わたしがまだ小さかった頃、わたしや友人たちはみなドナルドダックやミッキーマウスといった漫画の動物が好きだった。またペットも好きだった。弟のラリーはラッキーという名の亀を飼っていた。ラッキーが死んだとき、弟は何日も泣き続けた。

 もし子供たちに屠殺場の恐ろしい場面を見せたらいったい何が起こるのだろうか。彼らの多くは肉が食べられなくなるのではなかろうか。わたしたちは子供たちに肉がスーパーマーケットの棚で育ったかのように信じさせて食べさせている。生きている動物と皿の上に載っているものとの結びつきがわかる年になるまでは、彼らは文化的に受け入れられるかどうか、質問すらめったにしない食生活に慣れるのはむつかしいだろう。ほとんどの人の心は善良である。しかし生まれたときから動物を食べ物と考えるように教え込まれているのだ。彼らは動物たちの苦悩について考えることを学んだことがない。

 わたしのメモワール、『帰郷の旅』のなかで、はじめて肉と命を愛する動物とが結びついたときのことを書いている。この動物が死ぬことによってわたしたちは彼らを食べることができるのである。それはインドのわたしの最初の日であり、道端のカフェに坐って母牛とはしゃぐ子牛の仲睦まじい様子を眺めていた。インドでは、牛は路上を自由に歩き回る。だからわたしはしばらくの間、彼らを眺めることができた。母親の愛情がこもった大きな、輝く黒い目は、子牛のすべての動きを称賛していた。牛の親子は道端に寝そべっていて、母親は毛の多い子牛の体を舐めていた。子牛は母親の脇にぴったりと体を寄せた。わたしはそこまで歩いていって子牛を撫でたのを覚えている。子牛はお返しとばかり何度もわたしの手を舐めた。母親はわたしを見つめてやさしくモーと鳴いた。わたしは考えた、この動物たちはわたしとおなじように、命を愛し、互いに愛し合っていると。

 そのあとディナーができあがったので、わたしはカフェのテーブルに戻った。テーブル上に並んでいる料理が何であるか、よくわからなかった。しかし料理のひとつは、コックによれば肉料理だという。肉という言葉が突然耳障りに聞こえた。わが人生ではじめて皿に載った料理と目の前にいる動物が結びつき、わたしは感傷的になったのである。

 最近になってわたしは今日の乳製品と食肉産業との関係について学んでいる。子牛が生まれたとき、乳製品会社はメスを殺さず、通常はオスを肉のために殺す。乳牛はしばしばお乳がなくなり、利益を生み出さなくなるまで、非人道的な状況に放置される。それから彼らはトラックに詰め込まれ、食肉処理場へと送られる。

 このことに気がついた多くの思慮深い人々は、すべての動物の生産品を避けるため、ビーガンになろうとしている。しかしながら、わたし自身の宗教を含めて、インドのほとんどの精神的伝統において、人々は乳製品を乳牛とオス牛が愛され、寿命をまっとうするまで保護される場所から得ている。不幸なことに、こうした場所はまれである。

 ヴェーダ文化に触発された人々はとりわけ牛を聖なるものとみなす。それが贈り物であるだけでなく、人間の思いやりの心に依っている命の形を代表しているからである。牛は草を食べ、それを子牛のために乳に変える。牛の乳は牛の子牛に対する愛情の表現なのである。ヴェーダの考え方ではそれは「流動性の愛」とみなされる。このヴェーダ式の考え方によれば、子牛が飲むよりもたくさんの乳を生み出し、子牛も十分に満足したとき、人間社会は余剰の乳を滋養のために受け取ることができるのである。

 牛の贈り物は数えきれないほど多く、どれもとても貴重なものだ。たとえば牛糞は有用な肥料になる。そして広く燃料として用いられている。牛の尿は多くの自然薬品の成分となっておる。伝統的に雄牛は田畑を耕す作業に従事させられる。またその糞によって土地は肥沃になる。インドのマハラシュトラ近郊の田園地帯で、わたしたちは共同体を作り、クルエルティー・フリー(動物に残酷なことをしない)の乳製品を生産してきた。乳牛や雄牛はそこではこまめに世話を受け、自然のままの生活を送ることができた。それは簡単なことではなかったが、より大きな経済的、環境的、モラル的、精神的問題に注意を払ったので、このように運営することができただけでなく、あらゆる意味で冒険的であることができた。

 環境のバランスを維持するための規範が、はるか昔のヴェーダ経典群に記されている。これらには、ベジタリアンの食事も含まれているのだ。均衡が崩れた世界では、環境保護主義者も、急増する科学者も、多くの環境問題が、人間が消費する大量の動物性食品に発していることに同意している。環境問題には、毎年何万エーカーも貴重な熱帯雨林が破壊されることが含まれる。肉食品を生産するために、食用の家畜をそこで飼うのである。およそ3千ガロンもの水が使われて、やっと1キロの肉が生産されるにすぎないことは、言うまでもない。

 

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