プラサダの神秘的な価値
これら信仰深いおこないの背後にある考え方を吟味すると、彼らが精神的に、また地球の管理に関しても、道理にかなったことをしようとしていることがわかる。たとえばできうるかぎりバクティ料理は純粋で、地元の、オーガニックな素材から作られる。食べ物の加工の割合が少なければ少ないほど、より健康的である。いつでも可能であれば、わたしたちはナチュラル食品を選ぶ。もとから持っている栄養分を保持できれば、地球にとっても健康的なのだ。
食事の支度はそれ自体いわばメディテーションである。はっきりした意図によって食事の支度はいくつかの段階に分かれる。材料を育てる、あるいは購買する。料理を作る前にキッチンと自分たちをきれいにする。切る、こねる、スパイスを入れる、煮る、そして最終的にお供え物をする。もちろん、愛しい至高の者はわたしたちの食べ物を必要としない。母たちや父たちは子供に食べ物を与える。もし子供たちが両親から与えられた材料を使って、両親のために料理を作るなら、当然のことながら両親は喜ぶだろう。同様に至高なる者はわたしたちが彼のために料理を作り、心のこもった捧げものをするなら、その献身を喜ぶだろう。
2013年のはじめ、ドイツ・シュツットガルトの何千人もが参加する念入りに企画されたイベント、スロー・フード博覧会に招待された。考え方としては、今日のファーストフードの流行りがいかに身体の健康やメンタルの安寧、家族内の愛や心づかいに影響を及ぼしているか再評価するということである。お金を得るために、あるいは不浄な心で、調理されるなら、微妙なレベルで、そのエネルギーは食べ物に浸透し、それを食べることでわたしたちの意識に影響を与えるだろう。かわりに愛と心づかいが調理に使われるなら、エネルギーが食事に入り込み、意識を高揚させるだろう。
ヨーギはただたんに食べるのでなく、視覚、嗅覚、触覚、それにすべての食事の味覚において聖なるものの存在を感受するように訓練される。つまり食べることも瞑想の活動のひとつなのである。聖なるものを感じる人のように、バクティ・ヨーギもまたいうまでもなく感受していることに対し、感謝の念を覚えている。つぎに挙げるのは食事の前に唱える簡素な感謝の祈りである。
いとしき主よ、この聖化された食べ物で
祝福をいただきましたことに感謝いたします。
愛をこめてあなたにつかえ、あなたの恩寵の道具となるために
このプラサダから得た力を使わせてください。
人がそのような考えで食事に敬意を払うとき、彼、彼女はどれだけ満足を感じているだろうか。ヴェーダ文化を信奉する者によって祝われる多くの祝祭は、できるだけたくさんの人々にプラサダを喜んで分配することで絶頂に達する。プラサダを一緒に食べるのは、感謝の念と愛情を中心とする、家族的な雰囲気の中で生きることを分かち合う至福の方法である。聖化された食べ物を家族、友人、そして客に与えること、あるいは聖化された食べ物を大きな規模で、あるいは小さな規模で、必要な場所へ分配するのは施しの聖なる様式である。
このことはシンプルな概念に当てはめることができる。「あなたはあなたが食べるものである」は世界の健康へ向けての深遠なメッセージである。個人として、グローバルな共同体として、わたしたちは食生活を変えることによってより意識的な、思いやりのある生活の方向へ動く機会を持っているのだ。
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