カルナー:能動的で、知的で、方向性を持った思いやり 

 カルナーは思いやりを意味するサンスクリット語の言葉である。文字通りには「他者を感じること」という意味だ。「思いやり」を辞書は「他者の苦難や不運に関し、同情的な憐みや心配の感情を持つこと」と定義される。しかしカルナーは感情を超越する。カルナーは能動的で、知的で、方向性があるのだ。ただたんに感じる何かではなく、あなたがそれに基づいて行動する何かである。アヒンサのように、カルナーは精神的実践の本質である。

 ガンジー夫人がわたしの地球への思いやり(カルナー)がどこにあるのかと尋ねたのは正しかった。カルナーはたんなる行動ではなかった。それは思慮深い、(考えを)明確化した行動である。聖書の教師は、最初の、そしてもっとも重要な戒律は「人の心(ハート)、精神(マインド)、魂のすべてで神を愛せよ」だという。そしてそのような愛から「あなた自身のように隣人を愛せよ」という戒律が自然に生まれる。地球は隣人である。いや、それ以上の存在、母である。地球はわたしたちを支えている。地球は生きている。人々はそのことを忘れがちだ。カルナを実践するということは、わたしたちが問題について考え、診断し、どうやって助けるかを理解するということである。思いやりのレベルまでいくということは、わたしたち自身の能力を伸ばし、新しい情報と技術を得て、思いやりのある心づかいに関してより専門家になるということである。至高なるものはさまざまな方法でわたしたちに力を与えてくれる。わたしたちはそれぞれ解決のために少しずつ貢献することができる。

 最初にわたしたちがすべきことは、問題をより深い視点から見ることである。わたしがガンジー夫人に言ったのは、精神的指導者が祈り、瞑想をしているとき、何もしてないわけではないということだった。そう、環境を保護するための強力な法案を通すのは決定的に重要だが、問題の根本的原因に取り組むことも必要なのである。もし人の体が腫れもので覆われていたら、医者はその症状を手当てするだろう。しかし彼、あるいは彼女が原因の理解に取り組まなかったら、ふたたび発症するかもしれないし、ほかの病気を患うことになるかもしれない。環境汚染の根本的原因は、人間の心のエコロジーの中の汚染である。もしうまく大気、河川、海をなんとかきれいにしたとしても、内なるエコロジーを改善しないかぎり、人々はまたそれらを汚染してしまうだろう。

 有毒な貪欲さは人々の心(マインド)を汚染する。環境に起こっていることは心のエコロジーの外面的な現れである。貪欲は強迫観念であり、依存症である。それはけっして満足することがないのだ。得れば得るほど、欲しくなる。貪欲は心(ハート)を非情にし、残酷さを合理化し、犯罪を正当化する。貪欲は嫉妬を煽り、家族を分断し、戦争を引き起こし、真の自己の利益を見えなくしている。世界は貪欲に荒らされている。お金、権力、名声、セックスに対する貪欲に。腐敗した政治家が利益のために河川を汚染している起業家から賄賂をもらったり、科学者が財政支援のために倫理を脇に置いたりするとき、環境を改善しようとするのはむなしい行為のように思える。バガヴァッド・ギーターは貪欲を無知の病と呼んでいる。それは魂がもともと持っている善性を覆い隠してしまう。

 スピリチュアルな実践者が祈り、瞑想するとき、彼らは同時にいかに内なるエコロジーを純化するか、例を示して教えているのだ。スピリチュアルな生活とは、心を浄化する科学であり、至高の存在、互い、自然と調和しながら生きていく喜びを開拓していくことである。炭素の排出を減少させることは重要である。しかし心から有害なものを除くことをあわせてやらなければ近視眼的である。そして精神的リーダーたちはそういったことを教えることが期待され、すべての思慮深い人々はそちらに向かっていくべきである。

 母なる地球に敬意を払い、彼女の贈り物に感謝しよう。地球はわたしたちを養っている。そしてわたしたちはみなそのエコシステムの一部である。広い視野で見ながら――行動の影響を見ながら――そして節度を守りながら、彼女とバランスを取って生きていくのがわたしたちのつとめである。わたしたちはすでに資源の収奪の成り行きを目撃している。

 わたしたちはテクノロジー、医学、科学、学問、グローバリゼーションにおいて画期的な進歩を遂げている。しかしもし思いやりの心なくそれらを用いるなら、どういう運命が待っているだろうか。わたしたちは地球の管理人として責任を持ち、聖なる愛の献じられた道具として生きていかねばならない。精神的な面から言えば、危機は環境面の危機だけではない。実際それは人間の精神の危機なのである。

 人々のふるまいや価値観、哲学が変わらないかぎり、社会において持続的な変化を成し遂げるのは不可能だ。人生というのは、外側も、内側もいっしょに変化する全体としてとらえられるべきだろう。マハトマ・ガンジーは確信をもって言った。「あなたはこの世で見たい変化になりなさい」

 

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