行動のカルナー 

わたしは大地の固有の芳香である。わたしは炎の中の熱であり、すべての生きるものの命である。すべての創造物の最初の、そして永遠の種子であるわたしのことを知れ。

    バガヴァッド・ギーター 7.9

 

 世界を聖なる創造物とみなす人々は、内側と外側の変換のユニークで、パワフルな道具と接してきた。人と自然はつねに相互依存の関係にあった。しかし過去の数世代、現在と比べて、農業を通じて土地と結びついてきた。いかに世の中、変化したことか。ダルマの役目は、時のはじめ以来、ヴェーダ経典に書かれているのとおなじ理解のもとに、新しく、またゾクゾクさせるものになった。この世界は精神世界の一部である。しかしそこで何が起きようとしているのだろうか。

 テクノロジーをめぐって競争が激しく繰り広げられている。テクノロジーは驚くほどの利益をもたらすのだ。しかしわたしたちはどこへ行こうとしているのか、人生に何が起ころうとしているのか、考えるために一歩戻ることが将来必要になってくるだろう。スクリーン上に点滅するハイテク特殊効果を見慣れてしまった多くの人は、もはや夕暮れを眺めたり、裏庭の小鳥のさえずりを聞いたりする喜びを体験することはないだろう。

 人類はどれだけこの熱狂的なペースをつづけていくのだろうか。癌や心臓病、アレルギー、うつ病、その他ストレスや毒素と関連した病気が驚くほど増加している。科学的に、技術的に、経済的に追跡することによって、それらの背後には、たくさんのいい目的があることがわかった。しかし世俗的な進歩への情熱が強いからといって、直面する起こりうる反応を見失ってしまってはいけない。それらはわたしたちの健全な生活のために好ましいものかもしれないのだ。

 あとでもう一度論じたいが、性質の三様式――善良さ、情熱、無知――はあらゆることに影響を与える。善良さは保存と、情熱は創造と、無知は破壊と関連している。持続可能性とは創造の情熱をバランスと、自己保存を含めた保存の交点へと向かわせることである。というのも、もしわたしたちが地球を保護しなければ、自己保存をすることもなくなってしまうので、シンプルに真実を認識することこそ、わたしたちが健全さを保つためには重要なことだからである。もし創造的情熱と持続的な善良さの質とのバランスが取れなかったら、戦わずして、弱体化した無知のレベルにまで降下するだろう。わたしたちの様式は無知につながる情熱、破壊につながる創造である。

 今日、たくさんの人が真剣に緑の生活に興味を持っている。彼らは積極的に変革に対し重要な役割を演じたいと思っている。しかしどうやって?

 まず、あなたは自然に養われ、支えられていることを認識せよ。自然もまた「聖なるもの」に養われ、支えられている。あなた自身が全体の一部であることを感ぜよ。あなたはすべての物事と、すべての人と関係を持たなければならない。わたしたちがすべてのものに――他の人々から昆虫、樹々、海や川で泳ぐ魚まで――思いやりの気持ちを持つとき、環境の健全性との個人的な関わりがよくなる。そしてあなた自身の自我に対しても思いやりの気持ちを持つといい。

 思いやりの気持ちと自然世界への相互結びつきを育むいい方法とは、消費をより少なくする道を探ることである。広告産業が、とりわけテレビやインターネットがわたしたちに及ぼす影響は人の気をくじかせるものがある。あまりにもたやすく効果的な画像を用い、商売上のテクニックを用いて生き生きとした情報に見せたり、欲しても必要としてもいないものを人々に欲している、必要としていると思い込ませたりすることができる。あるかたちの、あるいは別のかたちの消費主義が健康に、あるいは世界にいいと人々に確信を持たせるのはたやすいことだ。しかし大半の消費は人々のためにも、環境のためにも健康的ではない。そしてそれは刹那的なのだ。

 思いやりの行動主義、それはカルナーなのだが、ひとつのサイクルの一部分である。これこそあなたの精神生活がいかに重要であるかの理由である。世界と相互依存していることや、究極的にこの世界の資源に依存していることに気づくことが、強烈で即座の影響をもたらす。それは恐怖からの解放である。恐怖がなければ、あなたは苦しむ人々に対し、深いあわれみを感じることができるだろう。そして痛みをやわらげるために何かをすることができるだろう。至高の者を愛することには、彼のもの、すなわちこの地球、すべての生きるもの、わたしたち自身を愛することが含まれているのだ。わたしたちは心をきれいにして、物事のより大きな計画のなかでは、われわれが必要だとしているもの、欲しているものなどはささいなものにすぎないという考えを洗い流すべきである。そしてわたしたちのまわりに誰がいるかを見て、その人たちを助けるべきなのだ。バクティにおいて、わたしたちは方向性のある行動を取り、その行動を至高の者に捧げるべきである。

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