実践2 スピリチュアルな関係、スピリチュアルな共同体 

 

至高の主は言った。「わたしはあなたがたとの間に友好的な関係を持つことができてとても満足している。あなたがたはみな信仰に身を捧げている。わたしはあなたがたの互いの友情にも満足している。あなたがたみなに幸運が訪れるよう願う」

    バガヴァータ・プラーナ 4.30.8

 

 何年も前、ヒマラヤの森の洞窟に住んでいたときのこと、わたしはほかの人間を見かけることはめったになかった。しかし孤独の中で、わたしを支えてくれた周囲のものたち、すなわち山々、太陽と月、動物、鳥、爬虫類、樹々、そして地元の種々のハーブとの関係にわたしは満足していた。こうした関係の根本的な特質を通して、すべての関係の基本的な性質についてわたしは多くを学ぶことができた。遊牧民的な猿の種族はとくに教訓的だった。彼らは食べ物と避難場所を求めて集団で移動する。母親は赤ん坊を溺愛し、いつも清潔にし、乳を与え、どこに行くにも背中に載せて運んだ。若い猿たちはいっしょに遊び、信じがたいほど元気に枝から枝へ飛び移った。その間に年長のオスの猿たちは食べ物を探し回った。おとなのオス猿はメスにぞっこんになり、得ようとする。特定のメス猿をめぐって注意を引こうと二匹のライバルのオス猿が競うのは、よく見かける光景である。猿と人間のふるまいの間に共通点があるのは特筆すべきではないかもしれない。とりわけ二つの部族が食べ物の豊かな地区をめぐって争っているときは。

 人間とおなじく、猿たちはまず心理戦争をし、身構え、紛争を解決しようと試みる。猿の世界では、キーキー鋭い声を出したり、牙をむいたり、攻撃的に飛んだり、そうしたことによって、実際の肉体的攻撃をせずにすむのだった。ひとつの集団が一歩引く限り、暴力沙汰は避けることができた。

 しかしときには小競り合いがエスカレートして噛みあったり、ひっかきあったり、蹴り合ったりといった悪意に満ちた戦いに発展することがあった。それに洗練された武器が加われば、まさに人間社会の争いの原形だった。

 人間が近くにいないところで、人間関係の本質について熟考するのはとても興味深いことだった。わたしたちの生命にとって、関係性がいかに重大なものであるか、あらためて意識させされるのだった。大きな喜びをもたらすのも、とてつもなく深い悲しみをもたらすのも、人間だった。わたしたちを元気づけるのも、失意のどん底に落とすのも、人間だった。わたしたちを啓蒙するのも、混乱させるのも、人間だった。

 わたしはまた、個人は孤立しているより、集団の中にいたほうが強いことを猿社会から学んだ。この認識によって、互いがどれだけ大切であるか理解することができるようになった。グループが覚醒の重要性を分かち合うとき、メンバーは精神的な、あるいはモラル上、高潔な生活を送ることに集中するよう互いに助け合うことができた。

 健全な関係を築くのはたいへんな労力を必要とする。そうした労力を注ぐことをいとわない人々は、物事を見るのに通常、エゴの目ではなく、謙虚な姿勢でのぞむことを学ぶ。その姿勢でもってすれば、あきらかに打ち勝てない違いがあったにしても、ささいなことのように思えるのである。狭い心を持つ人は、小石をも山と呼ぶだろう。しかし広い心を持つ人は、小石をあるがままに見るだろう。この「気づき」をもって関係をはぐくめば、わたしたちは小さな違いを捨て、より高い、一つの目的に集中することができる。これがスピリチュアルな共同体の意味であり、価値である。同様の価値観を分かち合える他の人々の強さに支えられ、本当に重要なことに集中しつづけることがむつかしくないことをわたしたちは理解するだろう。

 ギーターのなかで、クリシュナはこのような精神的な関係についてつぎのように述べている。

 

わが純粋な帰依者の思考はわたしの中に宿り、彼らの生命はわたしの奉仕に捧げられる。そして互いに啓発しあい、わたしについて語ることから、大いなる満足と喜びを得ることができる。

    バガヴァッド・ギーター 10.10 10.9) 

 

 スピリチュアルな交流というのは、神の愛を理解し、分かち合うにおいてすばらしい手段である。そのような関係の核心は、セーヴァ、すなわち奉仕の精神であり、究極的には至高の者への奉仕に駆り立てるものである。わが師はかつて尋ねられた。「あなたは全世界のグルなのでしょうか」。彼は質問者を見ながらやさしく答えた。「わたしはすべての人に仕える者である。それだけだ」

 西欧におけるクリシュナ運動の初期、プラブパーダは聖人であり、学者でもあったにかかわらず、弟子たちのために自ら買い物をし、料理を作り、掃除をした。弟子たちは彼より五十歳も年下だったのに。彼と弟子たちがいっしょにトイレに入ったときも、彼は順番待ちの列に辛抱強く並んだ。のちに弟子たちは違った対応をするようになったが、無自己の精神は衰えることがなかった。彼はもはや掃除をする必要はなくなったが、広範囲に旅をし、弟子たちと、神の愛のメッセージを聞こうとしているほかのすべての人を助けている。12年の間に彼は百か所以上のセンターやコミュニティを設立し、60冊以上の本を書いた。それらは何千万部も売れ、何千人もの熱心な弟子たちを魅了した。しかし彼自身は何の見返りも求めなかった。彼はクリシュナ、すなわちいとしい至高の者への純粋な愛を世界の残りの人々と分かち合うために自分自身を捧げたのである。

 バガヴァッド・ギーター(18.68)の中でクリシュナは宣言する。「この至高の秘密の知識を伝える者の身は守られるだろう。そして最終的に、彼らはわたしのもとに戻ってくる……この世界にその人以上にわたしに近い魂はもはやなく、その人以上にわたしが愛する者もないだろう」と。

 バクティの聖典は、たとえ一瞬でも聖なる人物に触れた者は、精神的な完全への扉を開けることができると述べる。ことわざに言う、「あなたの友人たちを見せなさい、あなたがどんな人間か語ることができるでしょう」。できうるかぎり、わたしたちは聖人とともに、修業中の聖人のそばにいるべきである。そのような共同体はわたしたちの精神的進歩のためにかけがえのないものである。

 

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