スピリチュアルな共同体の本質:「わたしはしもべのしもべである」
ギーター(6.9)は、精神的に成就した人は「正直で、他者の幸せを祈る者、愛情深い後援者、仲立ちをする者、嫉妬する者、友人と敵、憐み深い者、世俗者をみな公平な心で見た」。
たとえば人生のような「つながり」は、とても複雑なものだ。他者とやりとりしているとき、わたしたちの実践において、公平な、バランスのとれた心(マインド)を成長させるのはいいことである。至高なる者のしもべであるわたしたちは、互いのしもべでもあるのだ。シュリー・チャイタニヤは美しい瞑想を教えてくれる。自分自身を神のしもべのしもべのしもべのつつましいしもべと考えよ、と。わたしたちは「草の葉よりもつつましく、木よりも我慢強くなければならない」と彼は教えた。つつましやかさ、寛容さ、忍耐。他の人々とやっていくとき、これらを選んでエゴに打ち勝つことでわたしたちは助かり、神、すなわち至高の父を喜ばすことになる。どんな親でも子供たちがうまくやっていくのを見るのはうれしいものである。
しかしうまくやっていくためには犠牲を払うことになる。犠牲(サクリファイス)という言葉にはたくさんの定義がある。しかし愛の文脈のなかでは「聖化すること」という定義で用いている。互いのスピリチュアルな関心事に関係を置くことで、わたしたちはそうすることができるのだ。スピリチュアルな理想が関係の基礎を築くとき、どんな困難が起ころうとも生き残ることができるだろう。精神的に自分自身を改善しようと、また同じように友人を助けようとすればするほど、わたしたちの関係は表面的な不同意やエゴによる扇動をはるかに超えたレベルにまで達するのだ。川の表面はそよ風が吹くだけで変わるが、もし飛び込んで水面よりはるか下にもぐったら、わたしたちは静かな場所を探し出すだろう。