智慧を持って耐えよ
しかしひどく攻撃的なふるまいに関してはどうだろう? 寛容の名のもとにそれを大目に見ることができるだろうか。それを許せるだろうか。そのようなふるまいに対するスピリチュアルに健全な対応とはどういうものなのだろうか。
虐待を許すようなスピリチュアルなものなどありえない。赦しは虐待を無視し、ほったらかしにすることではない。悪いことをしていない人を守り、ひどく攻撃的な人を正す行動が要求冴えるところで受動的であることは、スピリチュアルの質が高いとはいえない。公正さと思いやりの間でバランスを保つには、精神的な成熟と特別な状況に対する注意が必要とされる。
人生にはさまざまなことがある。他人にどう見られるか、天候、病気の進行など、わたしたちは変えるだけの力を持っていない。どれだけ避けようとしても、あらゆる種類の難問が行く手に立ちはだかるだろう、とはいえ、わたしたちはどう対処するかの自由を持っている。ラインホルド・ニーバーの「静けさの祈り」が心にやってくる。「神よ、変えることのできないことを受け入れる平静さを、物事を変える勇気を、違いを知る智慧をください」。
善良な性質というものは、意味のある、持続可能な関係のために、また健全な共同体のために必要不可欠な基盤である。わが師はかつて言った。「善良な性質のない哲学は、実質的に何の役にも立たない」