スピリチュアルな家族の価値 

健全な結婚はスピリチュアルにおける完全への道である。この点から家族を見るとき、至高なる存在への信仰で家族のメンバーを世話するとき、ヨーガの実践と大いなる学習の体験の有意義な一部となる。

 バクティは既婚者に彼らの配偶者や子供たち、その他の家族を聖なる目的のために送られた神のいとしい子供とみなすようにと教えている。いとしい者の体、心、魂をはぐくむことは、責任を伴うスピリチュアルな実践の不可欠の部分である。

 パートナーであることは、聖なるものである。双方とも相手を互いに思いやる神のいとしい子供とみなすべきだ。情熱的に惹かれ合う時期は来てはまた去っていくかもしれないが、基本的な関係は分かち合った精神的な理想や敬意、忠誠などの土台の上に築かれている。互いの献身はつづき、それははかりしれない価値がある。十分な夫婦関係はいいときも悪いときも、いたわりの言葉、助け合う行動、相互依存によって、互いを評価し、表現することが必要とされる。すべての人間は評価されていると感じる必要があり、とくに家族間ではそうである。仕事や子供、その他義務でやることにパートナーの時間が取られ、その結果、どちらかの、あるいは双方の相手といっしょに過ごす貴重な時間が軽んじられてしまう。そのような軽視は関係の崩壊や精神的虐待につながる。それはカルマ的結果をもたらす罪である。対照的に、スピリチュアルな関係を思いやることで、双方がはぐくまれ、力が与えられることになる。

 子供たちもまた特別に見守るべき大切な存在だ。親になるとき、わたしたちは大きな責任を背負う。両親は子供たちの世話人であり、神の愛で彼らを育てる責務がある。模範を見せ、価値があることを示し、子供たちを導かなければならないのだ。愛情のこもった導きに対し、子供たちもまた、高いモラルや精神性を得る権利を持っている。子どもたちを無視すればどうなるかは、いずれわかることだが、わかる頃には遅きに失したことになっているだろう。持続的な愛情表現を示されなかった子供たちは、酒・麻薬や危険な性的行動、いかがわしい友人、ときには犯罪行為などに走って、反抗を示し、自分たちが欲していた見守りの欠如を補おうとするかもしれない。無視されていると感じた子供たちは、自分に自信が持てず、ふさぎがちで、生涯体に残る疾患に悩まされるかもしれない。

 理想的な家庭では、メンバー全員が自分は至高なる者のしもべであると考え、夫として妻として、母として父として、姉妹として兄弟として、娘として息子として役割をまっとうする。家族内のほかの者たちの安寧と幸せはもちろん期待している。バクティ文化はこうした意識をもとにしたいかなる家もティルタ、すなわち聖地になる。

 結婚の良し悪しを決めるのは忠誠心であり、だからこそ結婚のスタート時にある種の誓いが交わされる。生涯にわたって誓いを守るのは、容易ではない。誓いはつねに試される。約束に対して嘘偽りのないことが、誠実を表わす唯一の方法である。それでは成功の秘訣は何だろうか。わたしたちはより高い志をもって関係を保つことに集中しなければならない。わたしたちは謙虚になり、間違いを認め、正直に取り組み、育てる準備をしなければならない。わたしたちはいつも家族のメンバーに対し、精神的な責任を持っている。そしてより高い目的のために結びついたまま可能な道を探らなければならない。

 家族はこうした伝統的なやり方で精神的基盤を支えなければならない。

 

家の中に聖なる空間を作る。そこで家族のメンバーは個人的に、あるいはいっしょに、スピリチュアルな実践をする。

家は神の個人的な所有物というムードを作る。

いっしょにいるために、いっしょに祈る。

すばらしいスピリチュアルな心の友人を持つ。彼らを家に招き、彼らの家を訪問する。

あなたの家、礼拝する場所、共同体で、ひとつの家族のように、信仰儀礼をおこなう。 

互いに愛と敬意の念を抱く。またこの文化を子供たちに示す。

許し、忘れること。寛容で、忍耐強く、感謝の念を持ち、謙虚であること。こうしたことを子供たちに教える。

家族の全員に「疑わしきは罰せず」の精神を教える。ネガティブな判決に対しては用心する。せっかちに他人を批判するのは、しばしば自分自身の不安や未熟、利己主義の現われである。

家族の全員を神の愛する子供たちとみなす。もし神を愛するなら、神が愛する人々をも愛するだろう。そしてわたしたちの言葉や行動を通してそれを表現するだろう。

 

 基本原則は、わたしたちの関係のより大切な目的とより広い視点から見ることにそれぞれが心を注ぎ、多様性の中に統一性を見いだし、最善を尽くすことだろう。ときにはわたしたちは、異なっているにもかかわらず、彼らを家族として受け入れる必要がある。わたしたちといえば、価値あるとみなしているものに忠実でありつづけるのだが。

 

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