実践3 神の聖なる名を唱える
おお、王よ。すべての世俗的な結びつきを完全に捨てた偉大なるヨーギたちのために、すべての世俗的な喜びを欲する者たちのために、超越的な知識によって自己満足する者たちのために、主の聖なる名前をつねに唱えることが勧められる。
バガヴァータ・プラーナ 2.1.11
至高なる者への忘我の愛に導くもっともあがめられた実践法はキルタン、すなわち賛歌や祈り、神の聖なる名前の詠唱である。バクティの伝統によれば、至高の存在は彼自身の名をあきらかにし、これらの名前を誠実に唱える人々に対して彼の美しさ、甘さ、力、愛を明かす。聖典はもっとも誤った道に導かれた、もっとも低劣な習慣を持つ者でさえ、神の名を唱えることで意識を純化したなら、スピリチュアルな教師になることができると語る。
バクティ文学は聖なる名前を唱えることは「すべての人間にとっての最高の祝福となる」ことである。というのも、ほかのあらゆる精神的プロセスよりも、唱和は心を清め、魂の神への熱烈な愛を目覚めさせる力があるからだ。唱えるのは簡単だ。だれにだってできることだ。わたしたちはヴェーダが「カリの時代」と呼ぶ時代(真の自我の忘却とそれにつづく争いと偽善によって特徴づけられる時代)に生きている。そしてこの問題の多い時代に、至高の存在はわたしたちの心を惹きつけるために、「聖なる名前の音の波動のあらゆる可能性」を付与する 。
神の名の詠唱は、境界を超越している。世界中の聖典は人間に多くの至高者の名前をあきらかにしている。クリシュナ、エホバ、キリスト、ヤハウェ、アッラー、ナラヤン、ラーマ、ゴーヴィンダ。純粋にスピリチュアルな伝統から明かされたいかなる名前も、思いやりの心をこめて付与される。そしていかなる名前を唱えても、わたしたちは至高なる者に結び付けられる。尊敬されるカトリックの神父は、わが師プラブパーダから、信仰心の篤いキリスト教徒がどうやって神への愛を深めていくのか、と聞かれたとき、それは面白い質問だとわたしは考えた。プラブパーダは、キリストの名を心から唱え、イエスの教えに従ってよい心を持って生きていくことを勧めた。
サンスクリット語では、聖なる名前はナダ・ブラフマンとして言及される。ブラフマンは至高者とされ、ナダは文字通りには「流れ」を意味する。この場合、音の流れと意識の流れの両方だ。聖なる名前の音の波動は超自然的である。それはまず意識(感覚的、精神的、知的)の低いレベルに沿って流れる。そしてはっきりした意識とともに魂がどっと流れ出す。これがインドの精神的伝統のなかで、なぜ詠唱に栄光を与えているかの理由である。そしてサンスクリット文献はしばしば聖なる意識を目覚めさせるもっとも効果的なやり方としてのスピリチュアルな音について述べる。
物質的世界のすべてが音でできている。微粒子は著しく振動しているのである。物質的な音はつかのまの物質のかすかな背景音である。聖なる名前のより高い音は物質を通り抜け、魂に栄養を与える。それはおなじ精神的性質の音である。
精神的な音の波動に関しては多くのことが言われている。類推で説明するなら、もともとの意識を唱和によってよみがえらせるということである。雲から雨粒が落ちてくるとき、それは純水であり、あなたはそれを通して向こう側を見ることができるだろう。しかしそれが土と混ざってしまったら、本来の透明性を失ってしまうだろう。不純さが濾過によって取り除かれたら、雨粒は本来の清浄な状態に戻るだろう。神の名前を唱えるのは、濾過プロセスと比較できるだろう。それは指揮を浄化し、もとの純粋な、透明な状態に戻すのである。
⇒ つぎ