いかに唱えるか 

 基本的な唱え方は二種類ある。すなわちジャパとキルタン。ジャパがよりプライベートなマントラの瞑想であるのに対し、キルタンはしばしばほかの人たちといっしょにマントラや信仰の祈祷を歌うことを指している。ジャパの間、あなたは自分自身に向かってやさしく聖なる名前を唱える。あるいは神経が集中できているなら、声に出さず心の中で唱える。ジャパは身近で、個人的な行為で、ひとりきりでおこなうものである。あなたは超越的な音を通じて至高者と結びつきながら、心の奥の感情を捧げる。ジャパが要求するすべては、あなたの注意を聖なる音の波動に注ぐことである。あなたの心がさまようとき、あなたはシンプルにそれを音のもとに戻すのだ。

 神の名前で作られる聖なるマントラは完璧であり、完全な音である。明快な、謙虚な心でそれに近づくといい。

 ジャパを実行するために、多くの実践者は床の上のクッションに楽なポーズを取って坐る。あるいは正しい姿勢を取りやすいように椅子に坐る。他の人は唱えている間に一定の速度で歩くのを好む。ジャパは普通マーラー、すなわち数珠を持って実践する。まわりの世界が静かで集中しやすい朝早いうちに実践するのが望ましい。しかしジャパはいつでもできる、たとえ数珠なしでも。あなたが何をしていようと、自分自身に向かって心の中で、あるいは静かに、ジャパを唱えることができる。

 キルタンはひとりきりでも、他者といっしょでも、伴奏があっても、なくても、できうる活動である。それは静かでおだやかな神の愛を求めるものであり、また生き生きとした、力強い、愛の称賛である。それはまた坐っていても、歩いていても、踊っていてもできることである。他者といっしょに唱えるときにあなたが感じる幸福はいっそうあなたをマントラに耽溺させるだろう。バクティの聖典はとくに集まって唱えることを推奨する。というのもそれは参加者の心を結束させ、世界を浄化するからである。

 聖なる名前を唱えるのに、その人の人物としての資質があるかどうかは関係ないだろう。聖なる名前の太陽は心の中で昇り、誤謬の暗闇を駆逐する。キルタンであなたは至高の魂への愛を、そして互いの愛を、魂から魂への愛を表現する。一体化したグループとして唱えるときの没頭ぶりはパワーになる。そして心と声がひとつになって一体になっているという安心感にもまたとてつもないパワーがある。それによって精神的な喜びは極端なほど増していき、雨のように降ってくる神の愛を感じるだろう。

 聖なる音や聖なる名前が繰り返し唱えられるとき、それはマントラとなる。マントラという言葉は二つのサンスクリット語の語根に由来している。ひとつはマナスで、心(マインド)を意味する。もうひとつはトラヤテーで、分配する、あるいは解放するという意味である。マントラを繰り返すことで、心は不安や幻影から解放される。

 しかしどのマントラを唱えるべきなのだろうか。ヴェーダは欲するものが何であれ、人々が到達できるよう助ける「如意樹」だと言われる。ヴェーダは人々がよりよい健康、より多い富、愛する配偶者、子供たち、そして全体的によりよい楽しみに到達できるよう助けるマントラを収めている。ヴェーダはまた、より微妙な楽しみ、たとえば事物を操るヨーガや神秘主義的な力などを獲得するのを助けるマントラも収めている。そしてもちろんヴェーダは、事物からの解放であろうと、神の聖なる愛であろうと、スピリチュアルな覚醒を求める人々のためのマントラも収めている。

 マハーマントラ、すなわち偉大なるマントラとして知られるひとつのマントラはとくに、すべてのマントラの力と益を持っていて、カリの時代に推奨される。インドの広範囲のさまざまな精神的伝統からやってきた無数の覚醒した聖人や熱心なスピリチュアリストは、何世紀もの間、このマントラを彼らの主な修業として唱えてきた。ヴェーダ文学や、とくにウパニシャッドは、わたしたちが生きているこの時代、争いと偽善の時代において、このマントラが完全なスピリチュアルな方法であると宣言している。そのマントラとは以下の通り。

 

ハレー クリシュナ ハレー クリシュナ 

クリシュナ クリシュナ ハレー ハレー 

ハレー ラーマ ハレー ラーマ 

ラーマ ラーマ ハレー ハレー 

 

 このマハーマントラにおいてハレーという言葉はラーダー(ハラ)、あるいは親密なスピリチュアルな愛を授ける、至高なる女性原理を呼び覚ます。クリシュナは至高者の名前である。それは「すべての魅惑的な者」を意味する。至高者のもうひとつの名前、ラーマは「すべての楽しみの貯蔵所」を意味する。マハーマントラは祈りとして奉仕する。「おお、ラーダーよ、いつくしみを与えるあなたよ、おおクリシュナよ、おおラーマよ、あなたがたの愛情がこもった奉仕のなかにわたしを加えてください」

 聖なる文学のなかに無数の言葉がある。あるいはマハーマントラを唱えることで人が受け取る祝福について語る聖人の無数の言葉がある。プラブパーダは『至上のヨーガ・システム』の中でつぎのように述べている。

 

マハーマントラを唱えることで確立された超越的な波動は、私たちの超越的な意識をよみがえらせるための最高の方法である。生きているスピリチュアルな魂として、私たちはみな、もともとはクリシュナ意識そのものである。しかし記憶以前のはるか昔より、俗とのかかわりから私たちの意識は俗世界の環境の中で混濁してきた。私たちが生きている俗世界はマーヤー、すなわち幻影と呼ばれる。マーヤーとじゃ「そうではないもの」を意味する。この幻影とは何なのか。幻影とは、私たちがみな俗世界の「主」となろうとしていることである。実際私たちは厳格な法のもとで身動きが取れないのに。

 クリシュナ意識(あるいは聖なる意識)は人為的な心への押し付けではない。この意識はもともと生きている者のもとあらあるエネルギーである。超越的な顫動(せんどう)を聞くとき、それはよみがえってくる。このシンプルな瞑想法は、今の時代だからこそ勧められる。実践的な経験によってもまた、このマハーマントラ、あるいは大いなる救済の歌を唱えることで、スピリチュアルな層からやってくる超越的な忘我の状態を即座に感じることができる。スピリチュアルな場所からこのハレー・クリシュナのマントラを唱え、こうしてこの音の顫動はすべての意識の下層域、とくに感覚的な、メンタルの、知的な意識の層を超越する。それゆえマントラの言語を理解したり、このマハーマントラを唱えるために知的に適応させたりする必要はない。それは精神的な面から無意識的に適応するのであり、そのように前もって高い資質など必要なく、人はこの超越的な音の顫動に加わることができるのだ。

 マントラの詠唱は人をスピリチュアルな場所へと連れていく。そして人はマントラを唱えながら踊りたくなるという最初の兆候を見せる。子供でさえ詠唱と踊りに加わることができる。

 

 プラブパーダはつぎにいかにわたしたちがマントラの奥深いパワーと接することができるか教えてくれる。

 

 これら三つの言葉、とりわけハラ、クリシュナ、ラーマは、超自然的なマハーマントラの種子である。マントラを唱えることで、魂を守るため、神や神のエネルギーを呼び出すのである。このマントラを唱えるのは、母親の存在を求めて偽りなく子供が泣くのとおなじようなものである。母なるハラ(ラーダ)は、奉仕者(帰依者)が父なる神のいつくしみを受けるのを助け、マントラを真摯に唱える奉仕者の前に、神自身がその姿を現すだろう。

 

 これと関連して、ヴリンダヴァンの聖地に美しい物語がある。およそ五千年前、一匹のジャッカルが湖の水を飲んでいた。動物の中でもジャッカルはほとんど尊敬されることがなかった。あなたは「ライオンの勇気」「雄牛の強さ」「象の記憶」「鹿のようなやさしさ」「ナイチンゲールの声」といった言い回しを聞いたことがあるかもしれない。しかしジャッカルのようになりたいと思う人はいなかった。やせこけて、オオカミのように夜、金切り声をあげながら腐肉を食らうジャッカルと似ていると言おうものなら、それは侮辱以外の何物でもない。ジャッカルは死骸をも食らった。

 ある日、ヴリンダヴァンで数人の子供たちが、池の水をぴちゃぴちゃと舐めているメスのジャッカルを見かけると、笑いながら、棒で叩き始めた。ジャッカルは痛くて叫び声をあげたが、子供たちはなおも叩き続けた。それから何人かの子供たちは石を手に持ち、彼女に投げつけた。逃げようとしてもどうしようもなかったが、ようやく地面にあいた穴を見つけ、中に入って身をちぢめた。それでも子供たちは攻撃をゆるめなかった。彼らはジャッカルを苦しみを与えて楽しんでいたのである。さらに穴に向かってひどい言葉を浴びせ、穴のまわりに火をつけた。煙でジャッカルを穴から追い立て、ふたたび棒で叩こうと考えたのである。恐怖を感じたジャッカルは苦しみの叫び声をあげた。

 そのとき少し離れたところをラーダーと友人たちが歩いていて、ジャッカルの叫び声を聞いた。あわれに思ったラーダーは友人のラリタに言った。「誰であっても、こんな仕打ちをうけるべきではないわ。この人をわたしのところに連れてきてくださるかしら」。ラリタは棒を持って穴を囲っている子供たちを見つけ、家に帰らせた。それから彼女は火を消した。穴の中に手を入れ、彼女はジャッカルを引っ張り出すと、震えている彼女をラーダーのもとに連れて行った。ジャッカルは泣きながらラーダーの足元で頭を下げた。ラーダーはひざまずき、ジャッカルの頭をなでて、彼女を自分の仲間として受け入れた。彼女はジャッカルに完全なる生、神への純粋な愛を授けた。

 ジャッカルは幻覚を見ている魂のようなものだ。そして子供たちは俗世界で人が出会う三種類のみじめさにたとえられる。人自身の体と心(マインド)、本性、他の存在によって起こされるみじめさである。ジャッカルの叫びは慈悲を求めるつつましやかな呼び声である。メスのジャッカルが感じた誠実さでもってラーダーの聖なる名前を唱えるとき(マハーマントラ中のハレー)ラーダーはわたしたちに彼女の心を授けてくれるだろう。ラーダーのいつくしみに拒絶された誠実な魂などないのである。

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