さらなる実践 

 わたしたちはすでに五つの潜在的な霊的実践について論じてきた。どれも異なるタイプの瞑想だった。そしてもし誠実にそれらを実践するなら、心の中の信仰の種子は芽を出し、巨大な木に成長するだろう。その木には自己意識という果実が成り、神の忘我の愛が熟することになるだろう。

 

実践:聖なるものを記憶にとどめる 

 わたしたちはすでに聖なる名前を唱えること、そして聖なる文学を聞くことの重要性について吟味してきた。両方とも至高者についての瞑想を深める方法といえる。これらの二つの実践法の強化によって、心は神に思いを馳せることに集中できるのである。わたしたちはマントラを唱えながら瞑想することによって、他の人たちといっしょに聖なる名前を唱えることで、聖なる文学を研究することで、プジャをおこなうことで、たんに日々の活動の中に神の手を見ることによって聖なるものに思いを馳せることができる。わたしたちの霊的な実践が作り出す印象は、常時神の瞑想を深くおこなう手助けとなる。このような思いを馳せることは、バクティ派の瞑想の核である。

 ちょうど母親が娘の靴を見たときに愛する娘のことに思いを馳せるように、人生の中で出会うすべてのものの中に心からいとしい者のことを思い出す。心が唱えたり、自己学習したりして、より集中できるようになる。こうした実践が至高者への愛に目覚めることになる。そしてごく自然に、すべての中に彼との関係を見るようになり、彼のことをけっして忘れることはない。バクティの教えが言うには、クリシュナは、磁石が鉄の削りくずを引きつけるように、わたしたちの心を惹きつけるのである。バクティ・ヨーギはこの引き付けがすべての精神的修練の隠された宝であると考える。そこはすべての霊的実践の川が究極的に出会い、満たされる合流地点なのである。

 悪い習慣やネガティブな思考パターンは、意識下の見えない影響(サンスクリットでサムスカラ)をもたらす。それゆえそれを打破するのはむつかしい。バクティはそれを変えるやりかたを教えてくれる。できうるかぎり、すべてが純粋な至高者の瞑想にわたしたちの注意を向けることで、わたしたちも浄化される。そのように記憶にとどめることで、ネガティブに考えるのでなく、物質的なことを霊的なことに変容するだけで、心は統御される。瞑想に関して進歩したバクティ・ヨーギの思考は、さらさらと、濃く、さまたげられることなく流れる蜜の小川のように、至高者へと向かって流れていく。

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