実践:祈り、あるいは聖なるものとの霊的交流
祈りは敬虔な信仰において不可欠な要素である。というのも、祈りはわたしたちの思いや願い、愛する気持ちがもたらすものだからだ。それは至高者とのつながり、すなわち実際の関係を作り出す方法なのである。
至高者はわたしたちの祈りを聞いているのだろうか。バクティ・ヨーガは、超魂(スーパーソウル)はわたしたちの友人、立会人、後援者のようにそれぞれの心の中に住んでいると教える。彼はけっしてわたしたちをほったらかしにしない。それゆえわたしたちは彼に救いを求め、どんな状況下でも、いかなる時にも、いかなる場所でも、聞き入れてくれるのである。彼はすべてを聞き、すべてを見る。たしかに彼はわたしたちの祈りを聞いている。
ときに人々は不思議に思う。もし神がすでにすべてを知っているなら、なぜ人が祈るのを望んでいるのか。この質問に対する答えは、信仰を実行する心に話しかける。それは意味を持つ感情の交換であると。愛は何が、あるいは誰が正しいか、正しくないのか、誰が知っているかを断言するものではない。愛する人々は互いにコミュニケーションしたがるもの。愛する人々は目の前にいとしい人が興味を持つものを置きたがるもの。子供は母親の庭園から花を摘んでそれを母親に捧げたがるもの。花はもともと母親に属するものなのに、なぜわざわざ花を捧げるのか。その花のように、祈りはわたしたちが与えられた生への感謝の念の表し方なのである。祈りを通してわたしたちはいとしい至高者に、わたしたちはよいときにも、あるいは悪いときにも、彼のそばにいたいこと、そして彼のことを知りたいと願っていることを語った。おそらく祈りの中でわたしたちは彼にわたしたちが混乱していること、うれしいこと、怒っていること、つつましやかに感じていることなどを語るだろう。おそらくわたしたちは弱さをわかちあい、強さを求める――彼の強さを――あるいはただ彼がわたしたちとともにいるかどうかを知りたい。祈りの中で何と言おうと、祈りは聖なるものと通じ合ういい機会なのである。
多くの人は祈り方がわからないと言うが、祈りには特別決まったやり方があるわけではない。あなたは聖典の言葉や聖人の祈りの言葉から引用し、感覚に合う言葉を選び、あなた自身の言語や自身の言葉で祈る。こうして自分の祈りを作り上げる。祈りの鍵となるのは、誠実に、感謝の念を持ち、正直に、つつましやかに話すことである。
広い意味で言えば、祈りは敬愛する者に対して発するたんなる言葉ではない。それは彼の存在に気づいて、祈りながら、気をつかいながら、生きていくことも含んでいる。わたしたちがおこなうことすべてに織り込んでいく心構えなのである。仕事、家族や社会への奉仕、勉強、霊的な行動、これらすべてが聖なる交流によって元気いっぱいになるのである。
信仰生活の最初の段階において、あなたは自分自身が必要としているもの、欲しているものを求めて祈っていることに気づくだろう。これは初期の神とのコミュニケーションにすぎず、まだわたしたちが近づいている人の深い愛を基礎としたものではない。しかしそれはわたしたちの生における聖なる存在を認識するという利点がある。バクティをよく知るようになれば、あなたは自分自身が、指示をする誰か、あるいは必要を満たす誰かとしてではなく、あなたの奉仕や愛の対象として、至高者に近づきつつあることに気づくだろう。成熟した祈りは、幸運と不運、両者に対して評価を表わすものである。成熟した祈りは世俗的な援助を請うのではなく、導きと目的の純化を求めるだけである。あらゆる祈りの中でもっとも成熟しているものは、この世界の聖なる愛の手段として、無条件に奉仕し、愛する特権を求めるものである。
困難な状況に陥ったとき、バクティ・ヨーギは主に彼、あるいは彼女がいかに状況に対応すべきか尋ねる。「主よ、あなたはどういったことにお喜びいただけるのでしょうか。智慧をわたしにお授けください。わたしを浄化してください。あなたの思うままになさってくださいに」。なぜあなたにたまたまそれは起きているのか、たずねる価値がある。物事を理解すればするほど、また起きないように、困難な状況を守ることができるようになる。さらに、至高者が愛する、バクティが染み入った人の心の中では、つぎのような考え方がいっそう重要になってくる。「あなたに奉仕するために、わたしはこの状況をどう活用すればいいのだろうか」と。
その由来が何であろうと、信仰心の篤い祈りの本質は、至高者の栄光をたたえ、慈愛を求め、愛でもって奉仕することが許されるよう、そのいつくしみの前に、自らを卑下することである。
シュリー・チャイタニヤは簡単な祈りの中でこの気持ちを描写している。「おお、わが主よ、わたしは物質的な富の蓄積を欲していません。自分の信者もまた望んでいません。生と死からの解脱も望んでいません。わたしが欲しているのは、無条件の愛に満ちたあなたへの奉仕だけです」(シクサスタカム4)。
同様に、つぎのような聖ヴリトラによる好みの祈りがある。「おお、美しき主よ、羽根をまだ広げたことのない赤ん坊の鳥がいつも戻ってきてエサを与えてくれる母親を探すように、あるいは戻ってきて乳を与えてくれる母親を待ちながら飢餓に苦しむ子牛のように、あるいは別れてから時間がたち、愛する者が戻ってくるのを待ちわびる不機嫌な恋人のように、わたしはいつもあなたへ愛の奉仕を捧げたいのです」(バーガヴァタ・プラーナ6.11.26)。