実践 自我の降伏:自分のすべてを捧げる 

 自我の降伏(self-surrender)とは、身体、心(マインド)、言葉を――すなわち人生を――至高者の意思に捧げることを意味する。通常、降伏や敗北を意味する<surrender>のような言葉は、響きが恐ろしげである。しかしいとしい至高者への降伏は実際、真の自我の誤った自我への勝利である。それはエゴに打ち勝った魂のアセンション(上昇)である。献身の道にある降伏とは、自身を超越的な愛に完全に捧げることを意味する。

 降伏はもっとも霊的な教えの中核であり、ときには極端なやりかたで信仰者の心の深みをわずかばかり見せているのである。わたしたちは聖書の中で、イエスがゲッセマネのオリーブの園にいるのを見いだす。磔刑が近いのを知り、彼は祈った。「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」と。旧約聖書にこれと並行した箇所がある。愛する息子イサクを生贄せよという主の命令をアブラハムは受け入れた。降伏という行為はすばらしいものである。それは今日まで何百万もの人々を勇気づけてきた。

 ヴェーダの聖典もまた無数の降伏の物語を擁している。その中には国王、女王、苦行者、母、子供、身体、心、言葉をいとしい人の愛の奉仕に捧げる働く人々が含まれた。ここにバガヴァッド・ギーター所収のドラウパディの物語がある。それは十万叙事詩、マハーバーラタの聖典の中に刻み込まれている。ドラウパディの物語は学者や苦行者、また子供たちから、ベッドタイム・ストーリーとしてはこれほどすばらしいものはないと思われているのだ。

 物語の舞台は巨大な王宮だ。そこにもっとも力強い王宮の戦士たちが集まったのだが、ドゥリョーダナ王子の悪しき計画には誰も気づいていなかった。ドゥリョーダナはいとこたち、すなわちパーンダヴァ五兄弟に激しく嫉妬していた。というのも彼らは彼が欲しくてたまらなかった王座の正当な継承者だったからである。パーンダヴァ兄弟の父、すなわち国王は彼らがまだ子供の頃に死去した。そしてドゥリョーダナの父が息子のために王座を簒奪したのである。ドゥリョーダナの父は盲目だったため、統治するのには不適格とみなされた。それにもかかわらず彼はパーンダヴァ兄弟の弱点を探し、息子とともに彼らを辱め、信用を失墜させ、国外追放し、最終的には殺戮するという計画を立てた。

 この特別な物語の中でドゥリョーダナは兄弟の妻ドラウパディ(彼女は五人の兄弟全員と結婚しているが、別の物語もある)の名誉を汚すという痛々しい方法でパーンダヴァ兄弟を傷つけようと考えた。ドゥリョーダナは彼女が欲しくてたまらなかったので、彼自身の兄弟であるパワフルな戦士を「女の区域」に送った。戦士は彼女の髪をつかみ、集会所まで引きずっていった。そこには所有物すべてをだまし取られた夫たちがいた。虎の鉤爪に捕らわれたウサギのように、もがいても脱することができなかった。ドゥリョーダナは兄弟に夫や大臣らの前で、ドラウパディの身ぐるみをはがし、彼女が奴隷にされようとしているところを見せるよう命じた。

 貞節な女にとってこの公衆での辱めは死よりもつらいことだった。集会のメンバーによる彼女に向けられた残酷な言葉は燃える槍のように彼女の心を射貫いた。彼女は慈悲を請うたが、面前の戦士たちは笑うだけだった。

 力がないことを痛感ながら、彼女はその場に倒れた。ドゥリョーダナの兄弟はまたも彼女の長い黒髪をつかみ、足元にまで引っ張った。それからサリー(サリーは長さ6フィートの布。それで体に巻く)の端を持って、欲望のまなざしで彼女を見ながら、彼女を脱がせる準備をした。

 大きな蓮の形の瞳に絶望の涙をたたえ、彼女は英雄のような夫が救いに来てくれることを願った。頭を上げて側線に坐ったまま、彼らの心臓は怒りと悲しみで高鳴っていた。彼らもまた運命の囚人にすぎず、彼女を守るために何もしてあげることができなかった。彼女はそれから王座の方を向いたが、簒奪者の国王は無視した。彼女は家臣たちのほうに助けを求めたが、彼らも国王の言いなりになるしかなかった。でなければ彼ら自身が悪しき王子によって脅迫されることになるだろう。誰も彼女に目を合わせようとしなかった。

 ドゥリョーダナの兄弟は彼女の服を引っ張り始めたので、ドラウパディは何の特徴もない臆病な戦士たちを呼びながら、狂乱したように文句をつけはじめた。しかし彼女はひとりきりで、危険な状態にあることに変わりはなかった。彼女は半狂乱になってサリーを柔らかい指で体に巻きつけた。しかしどうしようもなかった。戦士は、猫がネズミとじゃれるように、彼女とじゃれていたのである。ドラウパディは絶望を感じた。このような状態で、彼女は神だけが彼女を救えることを理解した。彼女は降伏のしるしとして両腕を投げ出すようなしぐさをした。そして忠誠の涙を流しながら、主に彼女を彼自身として受け入れるよう嘆願し、この不安定な世界で彼女の身の上に起こったことにもかかわらず、心の底から感情をあらわにして泣き叫んだ。心から主の美しい名前を呼んだのである。「おお、ゴーヴィンダよ、おお、クリシュナよ」。

 通常は人間のすることに干渉しない主は愛を抑えることができない。彼はサリーの布の形象を取る。というのもクリシュナは無限であり、それゆえドラウパディのサリーは無限になったのである。戦士は力いっぱい彼女のサリーを引っ張ろうとしたが、彼は結局引きはがすことができなかった。彼がどれだけ奪い取ろうとしても、それはクリシュナのサリーになってしまうのだった。ドラウパディはサリーに覆われたままだった。それでも彼はあきらめなかった。ドラウパディは蓋みたいにくるくる回っていた。腕を高く上げ、彼女の心は主の名前を唱えていた。ドゥリョーダナの兄弟は集会所が布切れでいっぱいになるまで引っ張り続けた。ついには彼は地面にばったりと倒れてしまった。しかしながらドラウパディはもっともいとしい者の愛に抱かれたままだった。

 モーゼスが嘆願したとき、神は炎の柱として現れ、非武装のイスラエル人たちをファラオの軍隊から守った。そして今、無限のサリーとして現れ、ドラウパディを救ったのである。両方ともわたしたちが主に近づくときの誠実さと謙虚さに主が応じていることを表わしている。肉体が極端な状況に屈したとしても、自我の降伏の真の祝福は、神の無限の愛とわたしたちの愛の目覚めにおける、魂の永遠の解放なのである。

 これらの物語は極端な状況下の降伏の歴史的な例であるけれども、この精神は至高者の意思を最優先にし、わたしたちがたんに結局彼の所有物の世話人であることを認識することによって、毎日の生活に適用することができるのである。降伏とは、すべてを神の意思と調和させることを意味する。誤り導かれたエゴでわたしたちのものでないものを制御しようとするのをやめたとき、精神にとってこれがどれだけ解放的であるか、想像してみるといい。利己主義や不安に突き動かされることがどれだけ少ないか、想像してみるといい。

 ときどき、わたしたちは過去の振る舞いによって精神的成長が妨げられると感じるかもしれない。しかし過去にしたこと、しなかったことが何であろうと、過去の悪い習慣を解き放ち、心を降伏に差し出すなら、それは許されるのだ。つぎの一節は『ラーマーヤナ』の中の美しく明かされた主ラーマの言葉である。「もし人がわたしのところに来て、たとえ一度でも誠実に『私はあなたのものです』と言ったとします。わたしはその人を永遠にすべての危険から守るでしょう。これこそあなたがたすべての前でわたしが立てる厳粛なる誓いなのです。わが宿敵ラヴァナがやってきたとしても、わたしは彼を拒むことはありません」。

 『バガヴァッド・ギーター』は、わたしたちの世俗的な達成か、達成していないかではなく、降伏の誠実さに応じて至高なる者は報いてくれると述べている。この真実について語っているのが南インドで実際に起こった物語である。

 毎日博学な学者たちが寺院の中庭に、哲学を勉強し、論じるために集まった。中庭の片隅に簡素な服を着たひとりきりの男が坐った。彼は教育を受けていず、明らかにこの集まりに適していなかった。毎日、学者たちは男がバガヴァッド・ギーターを読もうと苦闘している姿を見ていた。彼の発音は集まりにいる人からはあざけりの対象になった。明らかに彼は文字が読めなかった。それなのに毎回本を取り上げるたびに泣いていた。頭がおかしいのか? 誇り高い学者たちは彼を見下した。

 そしてある日、クリシュナの化身であるシュリー・チャイタニヤが寺院を訪ね、この男が本をじっと見つめ、泣いているのに気がついた。

「何を読んでいるんだね?」と彼は聞いた。

 男は見上げた。「おれはちゃんと読めねえんです。ここに何て書いてあるんかわからんのです。でもおれのグルが、毎日この中庭に行け、そいで聖なるギーターの七百の詩を声出して読めっていうんです。ときにはちゃんと読めるし、ときにはまちがっているときもあります。どうしたらいいのか、わかんねえんです。でもこのままつづけようと思います。グルを喜ばせるためにも」

「だがおまえはなぜ泣いているのだ?」シュリー・チャイタニヤはたずねた。

 男はため息をついた。「読んでると、心の中にクリシュナが見えてくるんです。ほんとに美しくて、弟子のアルジュナに何か言っています。クリシュナは無敵の紙です。彼は信仰者にやさしさを見せるために、御者としてのいやしい役目を受け入れています。信仰者への髪の愛に感謝して、喜びの涙を流しているのです」

 シュリー・チャイタニヤは男を立ち上がらせ、抱擁した。「おまえは」と彼は言った。「本当に真のギーターの学者だ。おまえはその言いたいことを理解しているのだ」

 降伏とは、誠実で、謙虚な感謝に満ちた心で至高の者を喜ばせようとする意志も含んでいる。

 このバクティの実践をおこなうそれぞれは、もし誠実におこなわれるなら、わたしたちを完全な愛の状態へと導いてくれる。これらの実践の中で、大きな声で、あるいは静かに唱えることによって、すべての実践を豊かなものにし、それ自体が完璧な捧げものなのである。

 すべてのバクティの実践は正直であること、熱烈に努力すること、誠実な意図があること、そういった基盤の上に成り立っている。ナクてぃを誠実に実践するなら、神の愛があなたのなかにあること、あなたのまわりにあることを理解し、愛の光によって世界全体を見ることができるだろう。


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