内なる旅 

霊的生活を送る 

逆境は真実への最初の道である 

   バイロン卿 

 

道の行く手をさえぎるもの 

 その中に生きながら、世界を超越することは可能だ。覚醒する機会があるのは、結局のところ、浮き沈みがあるこの世界のここなのである。旅の途上、わたしは億万長者から極貧の人まで、教授から文字の読めない人まで、品行方正な人からモラルのない人まで、さまざまな種類の人と会うことになる。そしてこれらの出会いそれぞれが、彼らがどんな道を歩んでいようと、いかに彼らが霊的(スピリチュアル)であろうと、世俗世界において生きるための挑戦から誰も免れないことを示してくれる。わたしたちの偉大さはどれだけ長生きするか、どれだけのものを蓄えたかでは測ることができない。しかし天候の変化にかかわりなく誠実に生きているかどうかで測ることはできるだろう。

 

もしあなたが富を失ったとしても、あなたは何も失っていない。

もしあなたが健康を失ったとしても、あなたは何も失っていない。

もしあなたが徳性を失ったとしたら、あなたはすべてを失ったことになる。

     ウッドロウ・ウィルソン 

 

 成功した霊的な(スピリチュアルな)人生であるかどうかは、徳性があるかどうか、いかによく無条件の愛を学んでいるか、無条件に愛されているか、といったことで測れる。しかしそう簡単ではない。世界は気軽にいくものではない。

 わたしたちが霊的な道に足を踏み入れたとき、わたしたち自身からやってくる、あるいは世界からやってくる障害と顔を合わせることになるのはいたしかたない。わたしたちが知っていると仮定する世界や、わたしたち自身が真実でなく、意味深いものでないことを学ぶことによって混乱をきたすことだろう。障害物の中をどうやって航行していくのだろうか。それでもなお精神的変容を受け入れるだろうか。わたしたちは実践するのに妨げになるものをいくつか発掘することから始める。それは大きく三つのカテゴリーに分けることができる。すなわち無気力、怠惰、散漫である。

 辞書は、無気力(inertia)を「何もしない、あるいは変化しないままでいる傾向」と定義する。それはコインの両側に言及する。わたしたちの進歩を抑える習慣とルーティーンを固定化すること。そしてそれらを放棄することができないでいること。また一歩前に出て新しい習慣を作るために自己鍛錬したいのにそれができないこと。ときには進歩するためには、好ましくない習慣を捨てて行かねばならないのだ。しかしことわざに言うように「古い習慣はなかなか死なない(直らない)」のである。

 過去の癖は直りがたく、わたしたちの霊的な進歩に反して、真のゴールとは違う方向へわたしたちを容赦なく引っ張っていく。しかしわたしたちは人生を別の代わるもので満たし、好まざる習慣を捨てることによって、前向きの変化への要求に応えることができる。そしてこのように、習慣などに執着する心から生じた言い訳を、超えていけばいいのである。クリシュナは『ギーター』(2.59)の中で、アルジュナに無気力に打ち勝つ処方箋を教えている。「人にとって、対象への快楽の感覚は残るけれども、快楽の喜びは禁じられる」。しかしより高みにある者の感覚を知ることで、そのような気持ちもなくなってしまうのだ。

 無気力は、ときには修業における怠惰によって助長される。精神的な意味における怠惰は、世俗の義務に注意を払いながら、活動をつづけていくのだが、精神的な必要性に対しては乗り気でないのである。たしかな基盤にお金を費やすことなしに建物を建設するのは、短期間で完成させる場合にはいいかもしれないが、長期間の安定性に役立つものではないだろう。子供は学校に行くことを、楽しみの邪魔をするものととらえているかもしれない。しかしもしいい両親に恵まれていたら、彼らは子供の幸せのためにより高次の、長期のプランを立てていることだろう。同様に、もしわたしたちが精神的成長に積極的に投資をしなかったら、わたしたちの人生は薄っぺらなものになり、また人生の不確かさや感覚の欲求にたいして脆弱になることだろう。しかしながらすべてのことを知っているときでさえ、わたしたちはなおも手のかかる世界に生きている。そして内なる必要性に関しては焦点がぼやけ、目に見える結果にしか価値を置けないことにすっかり慣れ切っている。

 散漫は実践する場合のもうひとつの主要な障害である。わたしたちの注意はさまざまな要因でいかなる瞬間にもそれてしまう。わたしたちの心(マインド)や感覚によって内側から、そして人々や物事、できごと、環境によって外側から。巨大な散漫という爆撃機がつねにわたしたちを攻撃するのである。わたしたちの注意を捉えようと、メディアはあらゆる種類のエンターテイメントという巨大な富を投資する。そしてテクノロジーの進化によって――インターネット、スマホ、スマートTV、その他のすべての手に持てる大きさのデバイスによって――影響はより侵略的である。強いスピリチュアルな結びつきを持つ人々は自分に有利なようにこれらのデバイスの使い方を学ぶ。しかしわたしたちのほとんどにとって、それらはしばしば人生の目的から逸脱させてしまうものである。用心を怠ったら、大小の違いはあれ、散漫は一瞬のすきにわたしたちに招待をしてくる。招待を受ければ、長距離ドライブが始まる。

 実践の障害は誠実さや決意の固さで打ち勝つことができる。鼓舞してくれる、手本となる人々と仲間になることによって、決意を強固にすることができる。そして覚醒させる文学を読み、士気を高める講義を聞く。スピリチュアルな実践のために質の濃い時間を与えられ、わたしたちは生まれつき持っている意志をさらに強めるのだ。それぞれが挑んでくるものに打ち勝つだけの能力を持っている。わたしたちは自分の力を認識し、自分のために実践することによってそれを強めなければならない。わたしたちの聖なる本性をエクサイズする選択をするたびに、わたしたちのスピリチュアルな決意はより堅固なものになるのだ。しかしながら好まれざる傾向に仕える選択をするたびに、わたしたちの決意は弱まる。「神は自分自身を助ける人々を助ける」と言われる。信仰によってパワーを得た肯定的な態度でわたしたちは障害に打ち勝ち、より大きなパワーを惹きつける。


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