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 それにしても、どうしてよい人々に悪いことが起きるのだろうか。

 人は自分に起こったこと、あるいは世界で起こったことを、整然と、筋が通っているか、理にかなっているかに分類する傾向がある。知性のある人はそれで満足するかもしれないが、いつも心に届き、納得できるかどうかはわからない。霊的な知識は、ただたんに「知っている」のではなく、「変換する」ということでもある。愛するメンバーの喪失を嘆きながらも、われわれの会衆は、悲劇からも学び、成長したいと願っていた。それで重要な質問に答える前に、彼らの旅立ちで何を失ったか、彼らが与えてくれたすべてのもので何をわたしたちが得たか、熟考しながら、わたしたちは亡き魂の美しい思い出とともに出発するのである。わたしたちはひとりひとりがいかにまれであり、ユニークであるかについて、また彼らの永遠の魂が信仰生活を通じて得た祝福について熟考した。

 質問に戻る、なぜ? そして全体を見るために、聖なる文学に戻るとしよう。『バガヴァッド・ギーター』は『マハーバーラタ』の英雄たち、パーンダヴァ兄弟の祖父、ビシュマについて語る。死の床で彼はなぜ兄弟の人生がこんなにも困難であるか、孫たちに向かって大きな声でつぶやいた。彼らは結局のところ、主の熱心な信者であり、高潔さ、正直さ、献身ぶりの人格化だった。なぜ彼らは流浪生活、名誉棄損、暗殺計画、愛する人の殺害を耐え忍ばねばならなかったのか。なぜ彼らが?

 泣きながら彼は兄弟に、神の計画を知る者はいない、と語った。「偉大な哲学者でさえ余すことなく尋ねるが、彼らは途方に暮れるばかり……。わたしの考えでは、これはみな必然的な時間によって、神の統御のもと、すべての惑星のすべての者が運ばれる。ちょうど雲が風によって運ばれるように」

 この冒頭の言葉でビシュマはわたしたちにこれから説く主題の奥深さを教えてくれる。基本的に彼はなぜ善良な人々が苦悩するのか理解するのはむつかしい、というのも答えはわたしたちの理解を超えているからだ、と言っている。しかしなおビシュマは説明を続ける。現実をより大きな視点から見たとき、あらゆる魂に注ぐ主の愛はつねに完全なものなのだ。しかしながら強烈な光の中で悲劇的な起きた事故のあとでは、偉大な哲学者たちでさえしばしば「困惑してしまう」のである。

 特定の体がどのようにして特別なできごとに影響されるのかに思考の焦点を当てること、また責めを負うべき誰かを探すこと、そういったことは魅惑的である。覚醒した心は、悲劇や死のつかの間の時に通り過ぎる不滅の魂を見る。魂は精神の解放へ向かって悠久の旅を続けている。

 道の途中、それぞれの人の独特な見方がその人の外見に――よかろうと悪かろうと――影響を与えるだろう。わたしたちはみな人生の特別な瞬間を振り返る。そしてそのとき悪いと思われたことが祝福すべきことに変わっていることを理解する。よいと思われたことが呪われたことになっていることもある。このひとつの人生における「よい」と「悪い」の連続性をさらに伸ばしてみると、あなたは進歩の一般的パターンを見いだすだろう。魂に対し、できごとが持つかもしれない総合的利益を考えることなしに、心の現状においていかなる瞬間でも、わたしたちの観点に制限を設けたがるのは、ごく自然なことである。わたしたちは全体像を見ることができない。なぜならわたしたちの制限のある心(マインド)と感覚は過去のこと、あるいは将来のほとんどを見ることができないからだ。しかし神の愛はどんな状況でもわたしたちを待っているということを、覚醒した人々から教わり理解している。そしてわたしたちの心をそれに向けて開けば、それを認識することができるだろう。

 一般的なヴェーダの運命の評価法とは、原因と結果(カルマ)を見ることだが、『バガヴァッド・ギーター』は大局的見地から生を説明する。世界のすべての本質は一時的であり、つねに変わるものだと『バガヴァッド・ギーター』は言う。それゆえ喪失は誰にも避けられない。ギーターはさらに言う。

 

この物質世界の最上層から最下層まで、すべては苦悩の場所である。

しかし「わが住み家」を得た者は、この物質世界に二度と生まれない。

   バガヴァッド・ギーター 8.16

 

 ギーターはまた霊的な住み家はそれぞれの中にあると述べている。それはわたしたちの家であり、真にやすらぎの場所である。聖書はこの真実を繰り返す。「あなたがたは自分のために、泥棒が押し入り、さびがつき、虫が食うこのような地上にではなく、神の王国に宝をたくわえなさい。神の王国はあなたがたの内にあります」

 大局的に見よ。不滅の魂にとってこの人生は、多数の人生の芯が延々と永久につづく鉛筆の先みたいなもの。もし現在の瞬間の先を見ることができなければ、わたしたちは現在地を見失ってしまう。

 わたしたちはなぜ悲劇がこの人々に起きたか、けっして十分に理解することはないかもしれない。しかし知ることのできるたしかな三つの点がある。

 

1 すべてのものが一時的なものなので、物質世界は必ず来る苦悩の場所である。

2 わたしたちは、この世界の絶え間なく変わる条件の向こうまで延びた存在の魂である。わたしたちは実際永遠の存在である。このことを理解したとき、わたしたちは喜びに満たされる。

3 神の恩寵は存在するすべてのものの向こうにある。もしわたしたちが恩寵の陰に隠れたら、時間の経過とともに恩寵の根源、すなわち至高の存在、あるいは永遠の友人を認識するだろう。彼はわたしたちを人生の嵐から守ってくれるだろう。クリシュナはギーターのなかで(2.20 9.34)保護を約束している。

 

魂は生まれることも、死ぬこともなく、かつて現れたことも、これから現れることもない。完全にわたしのとりこになっているなら、あなたはかならずわたしのもとへやって来るにちがいない。

 

 信仰、信頼、愛によってのみ接近が可能な心の中の場所がある。このわたしたちの中の聖なる空間で、永遠に変わる宇宙について証言をするように、心は精神と知性が理解できないものを受け入れる。

 午前中、飛行機墜落事故で亡くなった犠牲者の家族や友人のために聖なる内面宇宙とつながるのは、レッドウッドの木を抱くようなものだった。つぎの数日間、いくつかの小さな追悼式や葬送儀式がおこなわれ、わたしたちのムンバイ寺院で行われた告別式が最大のものとなった。一日中、数千人もの人が集まり、亡くなった人々の記憶を分かち合い、故人や遺族のために歌や祈りがささげられた。

 大きな告別式でのわたしのメッセージはシンプルなものである。「これらの亡き魂はより高い場所へとのぼっていきます。それでわたしたちは彼らのために喜び、彼らの人生のために祝福したいと思います。しかしながら今、わたしたちは彼らの肉体とはお別れしなければなりません。今夜、流す涙の一滴一滴を、愛する魂への愛と感謝の捧げものとさせえいただきます。これらの涙は、わたしたちの心の中で聖なる愛の花を育み、この結びつきは永遠になくならないでしょう」

 

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