信仰は信念以上のものである
スピリチュアルな道は独力の投資を必要とする、すなわち理にかなった、健全に根付いた信仰である。信仰とは、いわゆる「宗教的」ではない。それはまさに意識の変化なのである。それは死後何が起こるか理解するといったことではない。今のあなた自身の変化のほうがよほど重要である。それはあなたが信じていること(信じることは変化する)ではない。しかしあなたの知性で、あなたの本能で、あなたの心で信頼することなのである。信仰心のある観点からすると、信仰とは導管である。それによってわたしたちは神と、霊的な者としてお互いに、そして世界とつながるのである。
この拡張された定義による信仰は、世界がわたしたちのために変化することを、敵対するのではないことをわたしたちが認識するのを手助けしてくれる。それは神の愛が自然の法則より高みにあることを、またそれを受け取るよう自分自身を適応させるとき、神がいつも待っていることを理解するよう手助けしてくれる。なおもそれは創造の微細な仕組みを理解するのを助けてくれる。すなわちわたしたちの行動や古代インドのテキストがカルマの法と呼ぶもの、イエスが「自分が蒔いたものは、自分で刈り取りなさい」と言ったときに言及したことについてわたしたちに責任を押し付ける自然の法則がある。同時に人生の陽だまりの季節や嵐の季節を通じてわたしたちはけっして希望がなかったり、支援がなかったりすることはない。信仰によって、幸福と苦難は成り行き任せではなく、精神的存在として発展に寄与していること、またわたしたちは自由に進歩的発展かほかの何かを選ぶことができること、そういったことを理解するようになったのである。