カルマ 

 カルマという言葉は文字通りには「行動」を意味する。カルマの法は、わたしたちが何かをしたとき、わたしたちが始める行動とリアクション(反応)に関連している。インドのスピリチュアルな伝統ではカルマの法を、重力の法則と同様の自然の法則と考える。つまり、信じようと信じまいと関係なく、法則が働くということである。

 他者への親切な行為は、わたしたちへの親切な行為を呼び寄せる傾向がある。悪意のある行動は、逆の結果を産み、わたしたちは痛みを感じる。

 もちろん、この世界ではしばしば反対に善良な人々が被害をこうむっている。そして悪い人々が罰せられない。しかしすべての行動にはそれに対応したリアクション(反応)がある。すべてのリアクションはそのうち満たされる。どのような行動であれ、種を蒔いたときのように、それは育っていっていずれそれなりのリアクションを算出するのである。種はしばらくの間、土の中にあるだけだろう。しかし条件が整えば、芽が出て、すくすくと育つだろう。わたしたちはこうしたことが起きるだろうといつも予測することはできない。カルマの法はシンプルだが、その働き方は複雑なのだ。

 わたし自身のある体験から、カルマの概念がいかに効果的に適応できるか理解することができた。何年か前、わたしはマラリアにかかってしまった。いつ蚊に刺されて感染したのか、どうしてもわからなかった。感染したのがどこか、どこで指されたのか知る方法がなかった。しかし症状ははっきりしていた。マラリアを運ぶ蚊に刺されたのはたしかだった。そして今適切な治療が必要だった。また将来にわたってより注意する必要があった。たとえばマラリア流行地域にいるときは、できるだけ蚊帳のなかで寝るべきだった。

 わたしたちは自分の苦悩の根本的原因を探ることができないかもしれない。しかしときには確信をもって種を蒔いて、それが成長して現在の状況にいたるのだということを知っているあのように振る舞うことがある。この生で、あるいは別の生で、行為を行わなければならなかった。それは実際はそんなに重要ではない。重要なことは、症状を認識すること、適切な治療を施すこと、そして将来も再感染しないように気をつけることである。

 信仰によって、人は世界が変わり、敵対するという考えがあることに気づく。カルマの哲学は陰鬱な気分や不健全な罪悪感を引き入れるものではない。選択に対して責任を取ることによって、そしてつづけて起こることから智慧を得ることによって、どんな状況であろうと、感情的に、精神的に成長するのを手助けする。このことを理解して、この見方から得られる方法を探索しよう。

 カルマを世界の一面だと考えよう。わたしたちの生き方に対して、それは整然と反応するのである。つまり、すべての行動(アクション)に対し、それに応じた反応(リアクション)がある、ということだ。人生とは行動(アクション)と反応(リアクション)の長い連続であり、結果にはそこから喜びも苦悩も生まれるだろう。もし行動(アクション)における責任対して自分自身が心を開き、智慧を欲するなら、そこから智慧がもたらされるだろう。カルマの概念をよりよい自分自身に適合させようと考えるとき、個人的な振る舞いにおいて賢い選択をするということは、とくに他者を扱う場合、しばしばそこはスタートを切るのにいい場所となる。

 

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