カルマの内面への影響 

 カルマの法則によれば、苦悩へと導く、あるいは苦悩を永続させる「進行」があるという。

 

1 苦悩の種は、至高者の愛あふれる下僕としての真の性質について無知であることである。 

2 自我の無知から、わたしたちは真の性質の外側に喜びを探し、自分勝手な欲望を発展させる。 

3 自分勝手な欲望は人を不道徳な活動へと駆り立てる。

4 不道徳な活動は二つのタイプの態度を生む。すなわち明白なものと不明瞭なもの。明白な反作用は今わたしたちがこうむっているもの。不明瞭な反作用は種のように、適切な生まれるときがくるまで、順番を待っているもの。これらは最終的に育ち、物質的な、感情的な苦悩の果実を結ぶ。

 

 決定的なのは、不道徳な活動に関わることで、わたしたちは内なる身勝手な欲望を強くし、何度もおなじ苦しみを生み出してきたことである。

 思考から振る舞いが生まれ、逆に振る舞いによって思考が形作られる。つまり自分勝手な振る舞いで離れていると考えれば考えるほど、それを繰り返すことになるだろう。自分勝手な思考は自分勝手な行動を作り出す。そしてそれはよりたくさんの自分勝手な思考を作り出す。このサイクルはいとも簡単に依存症を生み出してしまう。タバコを吸うたびに喫煙の習慣を増大させている。そして体がニコチンを欲すれば欲するほど、タバコを吸うことに取りつかれてしまう。こうしたことから、あなたが取った多くの行動に「考える→行動する→考える」のサイクルが、あるいは習慣化のサイクルがつづくことが理解できるだろう。

 ポジティブに見るなら、これが意味するのは、よいカルマをもたらす思考と行動のタイプに集中し、悪いカルマをもたらす思考と行為を避けることができるということである。もしわたしが他者に対して親切で、思いやりがあり、愛にあふれているなら、それらが第二の性格になるまでその思考と振る舞いを強化するだろう。同様に、もしわたしが喫煙をやめることができたなら、禁断症状の嵐が過ぎ去ったあと、だんだんと喫煙の習慣は消えていくことになるだろう。もちろん一部の習慣は習慣になるまで時間がかかり、それをやめるのはむつかしい。たしかにわたしたちは習慣の動物とも言えるが、習慣は変えられうるのである。すなわち不明瞭なネガティブなカルマの成り行きは、真剣に改善に取り組むことによって、あるいはよい思考と行動によって高められたポジティブな体験によって、緩和され、消失するのである。

 怒りや貪欲、心と感覚の渇望に屈するたびに、わたしたちは振る舞いの根に水やりをしている。強い根は枝を出す強い植物を作り、われわれの渇望に屈する機会も増大する。しかしながら、もしこういった傾向を抑え、かわりに身体的、感情的、精神的健康を構築することを選ぶなら、将来、誘惑に抵抗するためにも、精神的スタミナと強さを構築するだろう。健全な振る舞いの妨げとなるものは、人それぞれ異なっている。しかし誰に対しても適応する一般的な原則がある。すなわち、成長を妨げる振る舞いを、育てる振る舞いに変えること。そうすれば自己実現の花が咲くだろう。

 仕立屋が手の形に合うように手袋を作るごとくカルマの法則が適合するように、自然は魂に、心に蓄積された欲望と前世からの非・明白なカルマが適合した体が与えられる。

 やはり自我の探求において、認識すべき重要なポイントは、カルマはアートマ、すなわち魂にけっして触れないことである。善悪のカルマの反作用を体験するのは体と心(マインド)である。カルマは物質世界で機能する物質的な法則である。それは永遠の自我に影響を与えない。

 これは、わたしたちのすることはよいとか悪いとかはなく、わたしたちのあるがままの姿を変えることができることを意味する。「あるがままの姿」とは、いとしい至高者の永遠の愛にあふれた下僕である。すでに説明したように、ダルマとは、奪い去ることのできない事物のことである。あなたは火から熱を分離することはできない。なおも火は残る。あなたもまた、何をしようとも、至高者への永遠の愛ある奉仕から分離されることはない。わたしたちにできるのは、思考と振る舞いを通して、わたしたちの本性の覚醒を速めるか、遅くするかどうかだけである。わたしたちは忘却の暗闇の奥深くへ落下することを選ぶことができる。そして真実の光明に目覚めることだろう。

⇒ つぎ