魂には触れない 

揺らめく水面の月が月でないように、体もまた魂ではない。

    バーガヴァタ・プラーナ 3.7.11

 

 もしカルマの反作用の痛みと楽しみが魂に触れないなら、感じる痛みと楽しみとは何なのか。わたしたちが行動の責任を負わされるのはどういう意味なのか。

 痛みと楽しみを感受する魂は、一時的な体と心を同一視する間違った自我の影響を受けている。まるでけっして終わることのない夢の中で生きているかのようである。『バーガヴァタ・プラーナ』(11.11.2)はこの状況をつぎのように描く。「夢がたんに人の知性の創造物にすぎず、実体がないように、世俗的な嘆き、幸福、苦悩、そして幻影の影響下の肉体の受容はすべて神の幻のエネルギーの創造物である。言い換えるなら、存在するように見える幻の魂は真の現実ではない」

 軽率な選択は、とくにわたしたちを、たとえばほかの体に生まれ変わるなど、カルマ的反作用に巻き込む。カルマは永遠の自我(真我)に直接影響を与えることはないが、誤認の夢の中で苦悩を長引かせる。わたしたちの行動が自分勝手になればなるほど、自分勝手な振る舞いがしやすくなる環境に身を置きつづけることになる。

 ヨーガの経典は言う。人間は自由意志という計り知れない価値ある贈り物を授かってきた。それによって偉大なる善行も偉大なる悪行もおこなえるのだ。しかし祝福すべき自由意志には責任が伴われる。人間は聖人になることも、犯罪者になることも、その中間の何かになることも選ぶことができた。わたしたちは自分の言葉や行動がもたらすものに責任を持たなければならない。

 かつてわたしはひとりの裕福な父親を知っていた。彼はふたりの息子と等分の土地を残してこの世を去った。息子のひとりは父親のガイダンスに従って美しい家を買い、結婚し、家族を養った。もうひとりは悪い仲間とつるみ、父親のお金を費やして麻薬関係のビジネスに関わった。彼はすぐに今まで以上の金持ちになれると思った。彼は逮捕され、人生の大半を檻の中で過ごすことになった。三十年後、彼はまだそこにいる。彼は祝福を呪いに変えるという選択をした。このことは破壊的な結果をもたらしただけだった。

 さて逆に呪いを祝福に変えた人の話を聞いてみよう。わたしが会った女性は子供の頃、ひどい虐待を受け、育児放棄された。みじめな状況のなかで彼女は十代の時期ドラック中毒になり、窃盗と売春で習慣を助けた。何年も過ぎて、彼女の絶望は頂点に達し、変わるか死ぬかしかないと理解した。彼女はリハビリをする選択をし、それによって彼女の人生は変わった。現在彼女はほかのドラッグ中毒者がおなじように脱することができるように手助けしている。子供時代に耐えてきたすべてのこととつづくドラッグ中毒になったことは、なぜ虐待の犠牲者が中毒患者の振る舞いをするのか、深い洞察力を与えてくれると信じている。この女性は呪いを祝福に変える選択をした。そして現在、ほとんど誰もできなかったことをやっている。当時はとても難しかったが、彼女は今、自分の体験に感謝している。

 かつては行動を起こすと、わたしたちは選択のカルマの反作用に縛られ、ちょうどシカゴ行きの飛行機に乗ったときのように、途中で目的地を変えることはできなかった。しかしひとたび飛行機に乗っても、目的地に着いたときと同様、新しい選択をすることができる。すなわち種を植え、よりたくさんの恩恵のある未来が開かれるのである。意義深い選択の余地の拡大にとって、わたしたちはたくさんの目的地を作ることができるようになったのである。

 

⇒ つぎ