カルマに関する誤解 

 不幸なことに、カルマの科学についてある程度知っている多くの人がその真意について誤解している。困難に直面したとき、ある人々は、自分が悪いから苦しんでいるんだと考えてしまう。そして自分自身を憎む。このことが事態を悪化させる。しかしながらわたしがフロリダの空港でドロシーに説明したように、カルマの原理に気づくことから智慧や謙虚さを学びたいという気持ちが生まれる。自分自身を罪の意識でさいなむということにはならないのだ。

 謙虚と自責ではどんな違いがあるのだろうか。謙虚とは自己認識である。自我を膨張させたり、自己査定を低くしたりするのではなく、自分自身に関し、慎み深い、現実的な見方をすることである。謙虚なわたしたちは、もはや自分自身を不安のレンズで見ることはない。謙虚さから、自分自身に健全な質問を投げかけることができる。そしてそれは意識の「静かな、小さな声」へとつづく。さらには自己受容、寛容、思いやり、自分自身や他者への許しにつながる。もっともつつましやかであることは、もっとも自己認識しているということである。カルマがどれだけ作用するかを認識することで、わたしたちは健全な考え方や行動へと向かう。しかし不可避な人生の困難に対応して安定した自己確信を維持するために、必要な道具をそろえて準備しなければならない。

 究極的にこれらの教えは、至高者、世界、その他すべてに関連して「わたしたちのありのまま」の美しさ、偉大さを認識できるよう手助けする。「謙虚さとは、あなた自身のことをあまり考えないのではなく、あなた自身のことを過少に考えることだ」と言われる。

 カルマの知識によって人は運命論者になり、非生産的、怠惰、他人の苦悩に冷淡になることを正当化するようになると主張する人々がいる。もしすべてのことがあらかじめ決まっているなら、なぜわたしたちはトライしようとするのか。しかしカルマの概念は、こういった誤解を支えるものではない。むしろ実際はその反対なのである。状況を生み出す元があるが、変化をもたらすのは偶然である。18世紀の英国の政治家エドムンド・バークは言った。「悪の勝利のために必要なことは、よい人々が何もしないことである」。宇宙がいかに働いているかを適切に理解することによって心は硬化するのではなく、やわらぐのである。


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