死と不死、両方を思いながら生きていく
サンスクリット語の叙事詩『マハーバーラタ』のなかで天界の人が国王にたずねる。「もっとも驚くべきことは何でしょうか」。国王は答える。「どこでも死はあるが、それを見て人は考える、こういうことは自分には起きない、と」。
しかし誰が「こういうことは自分には起きない」と言っているのだろうか。その人は壊れやすい肉体組織、すなわち身体を持っているのではないか。あるいはわたしたちは壊れないことを生得的に知っているのではないか。死に直面すると「わたしとは誰か」のようなむつかしい問いを考えがちである。
われわれのムンバイ病院の救急病棟に患者がストレッチャーにのせられてあわただしく運び込まれてきたときに、ひとりの医師がわたしに語ったことがある。彼女は患者がよく「こんなことが自分に起きるとは思わなかった」と言うのを耳にしたという。そう思う人は、ほとんどいない。
『バガヴァッド・ギーター』は、わたしたとが世俗世界で直面する核となる問題は、誕生、老齢、病気、死だという。四つすべて、避けることができない。子供が生まれるとき、絶対的な確信をもって予言できる唯一のことは、いつの日か彼(彼女)は死ぬだろう、ということだ。なぜわたしたちは避けられないことを恐れるのだろうか。死から逃れたいと思わせる何がわたしたちの中にあるのだろうか。そして死後、わたしたちに何が起きるのだろうか。単純に生存することをやめるのか、分散して空に消えていく雲のように。
バクティの聖人と聖典は、われわれが本能的に生きたいと思う理由は魂が永遠だからだと語る。老齢と死はわつぃたちの本質と相いれないのだ。生が永遠であることと事物が永久的でないことは、世界の智慧の文化のほとんどすべての教えの中核である。そして覚醒は、二つの真実と、それらがいかにわたしたちの視野と振る舞いを変えるかを理解することから成っている。