わたしたちが誰であるかどうでもいいということはない
物質界にいる生命体は、風が芳香を運ぶように各々の様々な生命概念を次の体に運ぶ。このように生命体はさまざまな種類の体を転々と旅するのである。
バガヴァッド・ギーター 15.8
魂が体から離れるとき、魂はどこに行くのだろうかと不思議に思うのは当然のことである。インドでは、ほとんどの人が輪廻転生、すなわち生と死のサイクルの繰り返しという考え方を受け入れる。しかしながら西欧では、わたしがきかれるのは、運命を決める機会は一回だけなのかどうか、天国と地獄はあるのかどうか、どうしてこんなに多くの人が自分の望んでいない状況に生まれたのか、といったことである。
カルマの法のように、魂の転生、あるいはいわゆる輪廻転生に関して言えば、むつかしすぎて理解しがたい。何千年もの間、東洋の霊的道の導師たちは、西洋の多くの僧侶や神秘主義者とともに、哲学的書物の中において、転生について説明してきた。智慧と慈悲の心で、歴史の流れを変えてきたブッダやラーマといった化身と同様、覚醒した大師たちは転生の原則を教えてきた。
前述のようにわたしたちはそれぞれ髪の色から才能、障害までさまざまな個性を持って生まれてきた。わたしたちはまた切れることのなく連続する機会を提供されてきた。人々は自分の子供たちに、なりたいものに何だってなれると語るが、いつもそれが完全に真実であるということはない。というのもわたしたちのカルマの歴史は、物質的な意味で達成を制限するかもしれないのである。信仰や決意、寛大な心によって、打ち勝ちがたい物質的な障害に勝利するかもしれないのだ。それでもなお、たとえば、色盲を持って生まれた誰かはパイロットになれないだろう。しかし彼あるいは彼女は、霊的に、想像するよりもはるかにすばらしい存在になるかもしれない。わたしたちが誰であるか、誰になろうとしているかは、偶然によるものでなく、自然の法といかに作用しあうかに拠っているのである。